「マスクより愛が足りない」ヨハネによる福音書12章20~36節

 マスクは足りているでしょうか?私たちはウイルス感染拡大の不安の中に生きています。不安な時、私たちは本能的に自分の身は自分で守ろうとしますが、その思いはバランスを崩してしまいやすいものです。足りないマスク、自分の分だけを確保しようという思いが、パニックを起こします。

 あるいはこの時、人々の不安な気持ちをお金に変えようとする人がいます。マスクが高額で転売されました。今すべきことはお金儲けではなく、分かち合う事です。命や安全を踏み台にして金儲けをするのではなく、分かち合うことが大切です。私はこの転売を「罪」と呼びたいのです。

 この罪は人間誰しもの中にあります。すべての人が罪人です。状況がもっと悪くなれば、私も人を押しのけてでも自分の分を確保しようとするかもしれません。転売したかもしれません。私たちにはそのような性質があります。それが罪です。人を押しのけて自分だけが生きようとするのが罪です。私たち人間はそれがやめられない罪人です。今本当に足りないのは、マスクではなく、分かち合う心です。マスクより愛が足りないのです。マスクより互いの命への配慮が足りないのです。このような時、聖書は他者を犠牲にして、自分自身を愛することをやめるように語っています。

 今日の個所、イエス様は自分の命の危険を感じ、震えながら、十字架に向かわれます。しかしイエス様は恐怖の中でも自分だけ助かろうとはなさらないお方です。イエス様は逃げる事ができました。しかしイエス様は自分の命が守られるということよりも、他者の命を守るという行動をとるのです。

 その姿は自分の命に固執しなかった姿といえるでしょう。自分を守ることはもちろん大事だけれども、イエス様は他者のために生き、そして死ぬことを選んだお方なのです。26節、イエス様は自分の命を憎めと言います。誰しもが、自分の命がかわいいものです。しかし自分だけを愛し、人を蹴落として生きる命は必ず終わる命です。一方、一生懸命に「共に」生きようとすること、分かち合おうとすることは、新しい輝きを持つ生き方です。それは生死を超えた輝きがあります。

 共に生きようとする時にこそ、神様はその命を、永遠の命、永遠に輝く命であるとしてくださいます。実にそれは、失うことによって多くを得るという生き方です。「自分だけ」から「共に」という生き方の逆転ともいえる事が、今日の十字架の歩みが示していることです。イエス様はこの苦難の時、私たちに3回も繰り返し、仕えなさいと言います。すべての人が、互いに仕え、協力し合うこと、それこそが全員が生きる道なのです。

 私たちは今、病と不安からの解放を願います。そして罪からの解放、自己中心の悪循環からの解放を願います。イエス様はその罪のために死んだのです。今、自分に固執して、自分を守るか。それとも助け合うかが問われています。私たちは助け合うことによって、永遠の命をいただく者となるのです。