4月から週報に記載されている「兄」「姉」の表記をなくすことになりました。この表記を変更するのは一つにはジェンダー(役割としての性)の視点、もう一つはセクシャリティー(性自認)の視点によるものです。
ジェンダーの偏見とは性別によって役割分担を強いることです。女は家庭・男は仕事という区分けをなくしていくこと、それがジェンダーフリーです。日本は特に女性が政治やリーダーから排除される傾向にあります。一方セクシャリティーとは自らの性の在り方を自分で決める事です。恋愛対象を異性に限定しない事や服装などの選択について自分で決める自由があります。その人たち選んだ生き方を受け止めてゆくということが、セクシャリティーの視点です。どちらも多様性を認めてゆくことにつながります。この2つの視点から週報の「兄」「姉」表記の変更を行います。
教会は男女差別しません。役割を性別によって決めません。多様な性の在り方を認めます。しかしそのように本当に言い切れるでしょうか。私たちが本当に男女差別から解放される時、それは聖書の読み方が変えられる時ではないかと思います。
今日の個所を見てゆきましょう。今日の個所にはマルタとマリアという女性が登場します。マルタは兄弟ラザロの死の悲しみとつらさの只中にあってもイエス様に助けを求めた、信仰の深い人です。マルタはイエス様への信仰をはっきり告白する人です。これは他の福音書ではペテロが担っている役割です。マルタはイエスを告白する信仰のリーダーだったのです。そして同時に人々に仕える人でした。証しし、食事の奉仕にも立ったのです。
もう一人の女性マリアも見てみましょう。誰かに油を注ぐとは、その人を王に任命するという意味を持ちます。注いだのはこの女性、ベタニヤのマリアです。ふつうは頭から油を注ぎますが、ここではなぜか頭にではなく、足に注ぎ、さらに足の油を自分の髪で拭ったとあります。すこし不思議な方法ですが、それは確かに油を注ぐというキリストの任命方式です。
そして驚くべきことにこの後、洗足の出来事が起きます。今さっき、女性、ベタニヤのマリアに油を注がれ、足を洗われたイエス様が、今度は自分が弟子の足を洗い出したのです。まるでそれはベタニヤのマリアを真似するかのような行動です。きっとイエス様は真似をしたのです。イエス様は女性に従ってこの奉仕を行うのです。
今、大事にしたいことがあります。それはどのように私たちがイエス様に従って行くのかということです。どのように人々に仕える人になるのかということです。男女差別、男女の差、男女の表記を乗り越えて私たちは考えたいのです。イエス様に従いたいのです。性別を超えて人々に仕える生き方を選びたいのです。一緒に家族として、互いに仕える者として、イエス様を追いかけてゆきましょう。