「ウイルスより差別が怖い」ヨハネによる福音書9章1節~12節

 新型コロナウイルスへの対策について教会でも様々な検討を行いました。基本的に3月中は礼拝と祈祷会以外はすべて中止とすることにしました。苦渋の決断で、この判断がよかったのかどうか、まだわかりませんが、必ずまた再開するという気持ちで一時中断します。

 教会から世界に目を向ける時、今私が心配をしているのは、コロナウイルスの感染と共に、世界中で差別的な言動が起こっているという事です。ある箱根のお店では「コロナウイルスをばらまく中国人は入店を禁止する」と貼り紙が出されました。私たちの身近で、すでに差別が始まっています。

 ウイルスが心配であるという気持ちは誰にもあります。しかし、ウイルスよりも危険なのは、その心配というエネルギーが差別のエネルギーに変わる事です。心配という気持ちは、すぐに差別に変わりやすいこと、予防と差別と境目があいまいになる事も知っておきたいのです。もし私が感染者だとしたらという想像力を働かせましょう。そしてたとえそうでも私たちの関係は何も変わらないということを確認しましょう。同じように神様に愛されている仲間であることに変わりはない、そのことを今日の礼拝で確認しあいましょう。すべての命が神様から等しく愛されている、私たちもすべての命を大切にする。必ず大切にされる。いまこの時、改めてそれを覚えましょう。

 私たち教会の役割は今この時、心配な気持ちを差別のエネルギーに変えない事です。そしてそのエネルギーを祈りと一致のエネルギーに変えてゆくことです。差別をなくしてゆくことにエネルギーを向けたいのです。本当に怖いのはウイルスより差別です。差別はウイルスより早く、そして深く、世界に広がります。そのことに注意を向けていましょう。

 今日の聖書個所、ある場所に生まれつき目の見えない人がいました。彼は地面にしゃがみ込み、物乞いをして生活をしていました。彼を追い詰めたのは目が見えない事よりも、社会からの差別だったはずです。多くの人々は彼を無視し、施しをする人も彼の姿を見て「どんな罪が原因なのだろうか」「どんな悪いことをした罰なのだろうか」と考えながら施しをしたのでした。人びとの中に「私も同じ不自由をもって生まれたかもしれない」という想像力はありませんでした。

 しかしイエス様の態度は違いました。他の人のように差別をしなかったのです。イエス様は彼を一人の人格として、向き合い、声をかけ、触れあい、差別の言葉を否定し、癒し、そしてもう一度社会の中に戻したのです。それこそがイエス様の働きです。実に、差別とは罪です。命に優劣をつける罪です。しかしそれは、主イエス・キリストの十字架によって、もう必要のないこととされたのです。イエス・キリストの十字架によって、私たちはもう誰も差別しない、誰にも差別されないで生きるようになるのです。不安な日々かもしれませんが、今こそ祈りと一致を大切にしましょう。