本日は冬季休暇をいただいています。宣教は安西徹さんに担っていただき、この紙面を借りて、いつも悩んでいることをお分かちします。
宣教題についていつも悩んでいます。宣教題は入り口の看板に1週間掲示されます。八間通りを通る多くの学生や散歩中の方、仕事に向かう方の目に触れています。宣教題は不特定多数の方が見る物なので、一般の人にもなるべくわかりやすい言葉にしたいと思っています。例えば「信仰義認」や「悔い改め」「アガペー」といった言葉は通行人の方からは意味が分からないと思いますので、宣教題にするのを避けています。そしてできれば、その一言の宣教題が、うつむいて教会の前を通る人の励ましになることも願って名前を付けています。
先週は「神か、神以外か」という宣教題を付けました。芸能人のローランドさんが「俺か、俺以外か」という言葉で話題になっていることから、興味を引くだろうと思ってこの宣教題にしました。宣教題が道行く人の注意を引くようにということだけであれば、あまり悩むことではないかもしれません。とにかく面白ければよいのです。しかし必要な言葉は面白いだけの言葉ではありません。ある時の「駆け寄って下さる神」という宣教題は、その一言で通行人の方に励ましになるようにと願って付けました。正面玄関の前にはポストを設置して、週報を持ってゆけるようにしています。毎週、何枚週報が無くなったかを楽しみに数えています。
そして何よりも実際に宣教を聞く、礼拝に出席する人にとってこそ、この宣教題は大切です。宣教題は今日の宣教を一言で言い表すとどのような言葉になるかを考えて決めます。宣教の内容すべてを理解し、覚えておくことはできません。全体を理解する導きとなるという意味で宣教題は重要です。その宣教題の一言が、宣教全体をイメージさせるものでありたいと思っています。その御言葉とイメージの積み重ねが私たちを建てあげてゆくのです。
「神様は家族になってくださる」「なんとなく従う」という宣教題をつけた週がありました。宣教題が全体を言い表している事は聞き手にとっても助けになることだと思います。さらにこの宣教題はホームページにも掲載され、全世界に発信されます。誤解の無い宣教題にしなければいけません。
このように考えると、私たちの宣教は言葉と切り離すことが出来ないということに気づきます。私たちの言葉には限界がありますが、宣教とはどのような言葉が神様のことを一番表現できるのかを探す作業だと思うのです。そしてその言葉は、教会を超えて地域や世界に向けて発信される言葉です。
私たちは言葉で礼拝し、言葉で神を現わそうとし、言葉が心の中に残ります。礼拝では互いに言葉を交わします。私たちは今日の礼拝を、言葉を大切にし、心に受ける礼拝としてゆきましょう。今日の礼拝と行き交う言葉のためにお祈りをしています。