よく「教会に行くとどんなご利益があるんですか」と聞かれます。「あまりない」とか「キリスト教はご利益宗教ではございません」と答えると「じゃあなんで毎週行くのですか?」と不思議がられます。
神様を熱心に信じていても失敗や事故や災害に遭うものです。私たちは、教会に行かない人と同じ様に苦労しています。むしろ毎週教会に行くという分、余計に苦労して生きているともいえるかもしれません。
キリスト教のご利益は無いのでしょうか?私たちはそれにこう答えてはどうでしょうか。「人生いろいろな苦労がある。でも苦労があってもいつも神様が励ましてくれること、それがキリスト教のご利益です。そして神様は励まし合う仲間を下さいます。それもご利益です」今日の聖書の個所も神様の励まし、仲間たちの励ましの物語です。
彼らには災難が起こります。水が足りないのです。そして同じくらい深刻な問題は、仲間割れが起きているという事です。水不足を乗り切るには、全員が一致団結して水を探さなくてはなりません。しかし今、この人々には水を探すために何よりも大切な信頼関係がありません。
神様はモーセに水の探し方、命のつなげ方を教えました。それは励ましでした。もう一度長老たち協力して探してごらんとモーセを励ましたのです。自分を殺そうと言っている人ともう一回協力するように励ますのです。
イスラエルの人々は水を見て気づいたことがありました。それは自分たちの“間”に神様がいたということです。彼らは今までもめていました、そのもめている、その“間”にも、神様が一緒にいたということです。
そして「間」という言葉(ヘブライ語でケレブ)には、もうひとつ意味があります。それは内臓・はらわたという意味です。心の中心、感情の奥深い場所も指します。民は気づいたのです。私たちの“間”にいるということ、そして、私たちの“内側”心の一番奥深くに、神様がいたということに気づいたのです。
この物語は仲間割れの人々、その間に神様がいて下さったという物語です。私たちもときに仲間割れを起こします。家族、グループ、あるいは教会で起こります。ありとあらゆる仲間割れがあります。私たちはこの物語から、仲間割れの間におられ、励ます神様の姿を見つけます。もう一度関係の中に押し出して下さる神の姿を見つけるのです。
そして私たちは一人ひとりが心の奥に、神様からの励ましいただく者です。その励ましを受けて互いに手を取り合いましょう。それが私たちのご利益です。互いに励まし合いましょう。「私たちの間に神様がいる」のです。手がつなげない時もあるかもしれない。でも神様がその間にいる、真ん中にいる、そのことを覚えて1週間を歩みましょう。