出前のお寿司屋さんで働いていた当時、一番つらい事は、そのお寿司を届けられなくなってしまう事でした。様々な事情から届けるのが数時間遅れることがありました。当然、届けた先でお客さんから怒られ、怒鳴られます。家の奥からはお腹の空いた子どもの泣き声が聞こえ、機嫌悪そうに言い争う家族の声が聞こえます。たかが寿司です。でもそれが無いとどれだけ場がしらけるか、どれだけ人を怒らせるかを私は痛いほど知っています。
一方、お客さんの家では犯人捜しが始まっています。そして、だいたい注文をしたお父さんが犯人扱いされているものです。「お父さんがちゃんと頼まなかった」と家族に怒られ、白い目で見られます。今日は贅沢にお寿司だぞと、大風呂敷を広げて、自慢していたお父さんの面目は丸つぶれです。
食事が足りない、飲み物が足りないって案外、大ごとです。特にそれが大事な日であればあるほど、その食事は失敗の許されない食事になります。
今日の聖書個所、他人ごとではありません。イエス様は食事や飲み物が足りない現場にいて、宴会が続くようにして下さるお方です。楽し時を過ごそうよ、そう言って、守って下さるお方です。神様が一緒にいるのは悲しい時だけではありません。喜びの時も神様はともにいて下さいます。そして、それが続くように取り計らってくださるのです。
今日の物語でイエス様は「今あるものに感謝して、満足しましょう」とは言いませんでした。だれも飲みきれない程の量のワインを奇跡によって出しました。それはこの喜びの宴会を続けようというメッセージです。
聖書にはたくさん、悲しみと苦しみに伴ってくださる神様が描かれています。人生の暗闇の中で輝くイエス様の姿が描かれています。でも、神の姿はそれだけではありません。神様は人間の喜びや祝や楽しみがある時も、共にいて下さることがここで示されています。イエス様はこの楽しい時が、人生の喜びの時が終わらないように、続くように、私たちにはからってくださるお方なのです。みんなの笑顔を願われるのが神様の姿です。
宴会に参加している人はこの奇跡には気づきません。気づかず歌って楽しんでいました。私たちもそうかもしれません。楽しみの時、喜びの時、神様の守りを忘れてしまう存在です。この喜びがどこから来たのか、知らない者なのです。でも私たちの喜び、平安には、イエス様が背後におられるのです。
弟子たちはなぜ信じたのでしょうか?それはイエス様が、私たちの喜びを共にしてくださるお方、その喜びが続くように願っているお方だということを知ったから、彼らは信じる者となったのです。私たちもそうなりたいのです。喜びの背後に神様の姿を見つけたいのです。
今の私たち、大きな苦しみの中にある方がおられます。神様はそのような方と共におられます。そして、喜びの中にある方もおられます。そのような方とも神さは一緒にいて下さいます。