11月14日、日本では大嘗祭が行われました。今私たちは、天皇制、特に政教分離について考えたいのです。私達の教会の信仰告白には「信仰による良心の自由、および政教分離の原則は、何ものによっても犯されない。教会は、地上の権威、権力に対して常に目を注ぎ、このために祈り、神のみ旨に反しない限り、これに従う。」とあります。教会は政教分離を守る、それが守られているか行政監視をすると告白されています。大嘗祭とは極めて神道的儀式です。しかしその宗教行事が27億円の税金によって行われました。これは政教分離の原則に反します。政教分離がないと、国の政策のために、宗教が利用されるようになります。それを絶対に許してはいけません。
聖書には直接、政教分離の原則が述べられているわけではありません。しかし、政治と宗教が混同している時代にどのように、信仰を守るのかということはテーマとして書かれていると、私は読みます。
政治家ピラトは統治のために、たびたび宗教に介入し、利用しました。政治と宗教は混同されていた時代です。一方で、大祭司も自分たちの宗教を守るために政治を利用しました。彼らは自分たちの勢力を脅かすものを殺そうと考えました。宗教と政治は混同され、利害関係で結びついています。政治家ピラトは自らの政治的な力を、宗教のために行使し、イエスに死刑を宣告したのです。ピラトの判断は自分の立場を守るためです。彼は法律に従って裁くべきであったのに、それを歪めました。宗教も同じです。自分たちに都合の悪い人間を殺すため、政治を利用したのです。政教分離が守られず、政教が混同し、互いの利益のために、一人の男が十字架にかかりました。政教が混同する、それはお互いを利用し合う関係になるということです。
政治は宗教を利用しない、宗教は政治を利用しない、そのことが私たちにとって、とても重要なことであるということが、ここで示されています。
ではその時、イエス様はどこにいたのでしょうか。イエス様がいた場所は隔離されていたのではありません。大祭司たちから見れば、汚れた場所にいました。イエス様は宗教と政治の衝突し、混同し、互いに利用し合い、かつ無責任な態度、その真ん中にいたのです。混同の真ん中におられたのです。
混同の真ん中におられるイエス様に向き合うと、「真理とは何か」という問いが生まれます。真理とは何か。私たちもイエス様の前でそのような問いを持つ者です。真理とは何でしょうか。真理とは、神様のみ言葉です。真理とは神様の出来事です。真理とは、イエス様からやって来るものです。真理とは聞くものです。真理とは、私たちの中に探しても見つかりません。それは神様から出て来るものです。そして私たちはそれを受け取るだけなのです。真理とはイエス・キリストです。真理とは私たちの希望です。
だから私達は真理において、その希望において妥協しません。私たちはその希望を、真理を、他の何かと、誰かと混同しないのです