聖書でもっとも有名な物語のひとつ「放蕩息子のたとえ」。この話はいくつかの視点で読むことができます。ひとつは弟の立場からの読み方でしょう。聖書を読む者自身の人生、身勝手な自分の人生、そして悔い改めと重ね合わせて読まれてきました。もう一つの視点は兄に立った読み方です。兄はまじめに父親に従い続けました。兄は父親が不真面目な弟を大歓迎することを理解できず、その恵みに納得がいかなかったのです。失敗した人を受け止める寛容さが読まれてきました。
しかし父親に注目をしてこの話を読み取りたいと思います。なぜならこの話において父親とは神様の事であり、子ども達が私たちのことだからです。イエス様はこの話によって、神様がどんな方であるかを、私たちに伝えようとしています。神様の無条件の愛、一方的な愛、そしてその愛の中で私たちがどのように生きるのかという問いが投げかけられているのです。
神様は、私たちを見て、私たちが遠くにいるのを見つけて、駆け寄って下さるお方です。私たちが見えるかどうかは関係ありません。神様の方から、見つけ、走り、抱きしめて下さるのです。神様は私たちに、悔い改めを条件にして愛するというお方ではありません。まず先に私たちを愛してくださる、命を、その存在を喜んでくださる、それが神様なのです。
神様が駆け寄って下さるのは、その人が真面目だったとか、正しいことをしてきたとか、そういった事とは関係ありません。神様は、どんな人にも、神様から走って、出かけて行って、歓迎と、励ましを下さるお方です。父親は不真面目で失敗した弟に駆け寄りました。そして、それに納得できない兄にも家から出て励ましに行きました。そのように神様は、あなたに、私に、あの人に無条件で、神様の側から、私たちの目の前に現れて下さるのです。
そして神の分け隔てのない神の愛の只中で兄弟の対立が描かれます。兄弟とは私たちのこと、私たちの世界のことです。この二人の性格は真逆です。共通点はほとんどありません。でも一番大きな共通点は、同じ人を父に持つということです。それは唯一、最も大切な共通点です。
私たちも違いだけではなく共通点に目を向けたいと思います。それは神様がすべての人を愛してくださるということです。私たちの神様は、信仰の有無さえ条件とせず、すべての人に駆け寄り、抱きしめて下さる神様です。それによって、私たちは問われます。どうやって隣人と共に生きるかということを問われます。どうやって異なる人と一緒に生きるかということです。神様はすでに、異なる他者を歓迎し、受け止め、愛しておられます。にもかかわらず、私たちはお互いに何かの条件を付けて愛そう、受け入れようとするのでしょうか。今神様がそうしてくださるように、その存在、命を喜ぶ、共に神様が駆け寄ってくださる大切な存在として喜び合う、そんな共同体に、私たちはなりたいと思うのです。