聖書にはいろいろな場面で子供が登場しますが、2000年前の子どもの命を取り巻く状況は現代の私たちとは大きく違いました。ニコニコしてかわいくて、純粋な存在であるよりも、まず「最も弱い存在」でした。子どもは社会の中で肉体的にも、社会的な地位の上でも、最も弱い存在、最も小さい存在でした。現代において子どもの環境は大きく変わりましたが、弱くて、小さな存在を受け入れることは、なお私たちに必要とされていることです。
平塚教会が弱くて小さな存在、子供たちを受け入れる具体的な働きが「子どもプロジェクト」です。教会は弱い存在を特別に受け入れる場所です。教会は大きくなくていい、小さくていいのです。教会は強くなくていい、弱くていいのです。なぜなら弱くて小さい人たちが集まる場所だからです。教会は、弱くて小さくて、神様の助けが必要と思う人の集まりです。誰かの助けと祈りが無くては生きていけない、子どものような集まりです。だから私は思います。教会には弱い人が集まれ。教会には小さい人集まれ。教会には差別されている人集まれ。教会には居場所無い人集まれ。
そして教会が「この子どもを受け入れなさい」という言葉を聞くとき、外側への関わりだけではなく、私たちの内側にも向き合わされます。それは教会の中で、集うお互いの弱さを受け入れなければいけないということです。他者の弱さを受け入れていく、そしてもちろん自分も、強がらないで弱さを正直に表し、受け入れてもらわなければいけないのです。
私たちは自分の弱さ、お互いの弱さを受け入れる、弱さを持った人を受け入れることが難しいと感じる時があります。しかし聖書は弱い者を受け入れることは、イエス様を受け入れること、そしてイエス様を受け入れるとは神様を受け入れることなのだと言います。
イエス様の十字架をよく見て下さい。それは勝利、強さではありません。神様の子どもが拷問されて死ぬ瞬間です。神様の子どもがもっとも弱い姿になられたのが十字架です。弱いまま、何もできないまま、死んでいきました。弱さと屈辱を受け入れて、死んでいったのです。なんと弱い姿でしょうか。みなさんは、こんな神様の姿を受け入れられるでしょうか?
弱い神の子の姿、十字架を受け入れることは本当に難しいのです。そして、私たちは子どもや他者や自分の弱さを受け入れるのも難しいのです。でも私たちは不思議な力によって、この神の弱さ、十字架を受け入れることが出来るようになります。そのときはじめて私たちは、小さな存在、お互いの弱さを受け入れられるようになるのです。
私たちは今日確認したいのです。なによりも神様が、弱さを受け入れるお方だということです。そして私たちは、神様の弱さを受け入れるとき、つまり十字架を受け入れる時、本当に弱き者、小さき者を受け入れることができる、他者の、自分の、弱さを受け入れることができるのです。