聖書は私たちに、神様を「帯を締めて待つ」「ランプを付けて待つ」「目を覚まして待つ」、このように待つようにと教えています。もちろんこれはたとえです。私たちの待つ姿勢について語っています。慌ただしい現実の私たちに、神が現れると期待する、それを待つ姿勢を教えているのです。
神様を待ち望むこと、それは子どもが母親を待つ、留守番をするときの様子に似ているのではないかと思います。子どもは留守番の最中、時計を何度も確認するように親の帰りをずっと待ちます。そして帰ってくると玄関に向かって走って迎えに行くのです。
大人になると気づくのですが、子どもが留守番をした時に一番うれしいこと、それは子どもが言いつけを全部守ることではありません。それよりももっと嬉しいことは、親である自分のことを待っていてくれた、駆け寄って来てくれたということではないでしょうか。「お帰り、すごく待っていたよ」ということが、親にとって一番うれしい事、神様にとって一番うれしい事です。
私たちが神様を待つ時に大切なこと、それは帯を締める事やランプをともすことではありません。神様を待つとは、何か物事の準備をすることだけではありません。神様がもっとも喜ばれるのは、待つ心です。神様を早く自分のもとに迎えたいという、待ち望む心がもっとも喜ばれるのです。
私たちの教会として、待ち望むとはどんなことでしょうか。教会という共同体が神様を待ち望む、心に迎えることを待ち望むということはどんなことでしょうか。教会にはいろいろなプログラムや奉仕があり、その準備を大切にします。奉仕が「帯」を締めるように、しっかりと準備されている事は大事なことです。でも物事の準備よりももっと大切なことがあるのです。それは神様を待つ、心に招く姿勢だと思うのです。私たちは準備や奉仕、結果やプロセスも大事にしますが、神様を心に迎える時を待つ、何よりもそのことを大切にしたいのです。
聖書は待つ姿勢において、悪い例も挙げています。それは主人の帰りが遅い、つまり神はもういないと思って、人を殴って、自分だけが食べる姿です。神がいない世界は、愛のない世界です。そこには、お互いを認め合うということはありません。奪い合い、傷つけ合いながら、互いを否定し合って、自分だけが生き残る世界です。それが聖書に挙げられる最も悲しい世界です。
しかし私たちは違います。私たちはこの後、主の晩餐をもちます。私たちはパンを皆で分かちあう、共に食べる礼典を行います。私たちは共に同じ主を待ち望む者として、このパンと杯をいただきます。私たちはお互いを否定し合うのではなく、一致して、愛し合い、このパンを食べるのです。私たちは互いに愛し合いながら、主を待ち、この主の晩餐を持ちます。
私たちが完全に一つにされる時、キリストの約束の時を、親を待つ子どものように、待ち望みたいのです。