公平であるということは、本当に難しいことだと思います。私がそれを一番感じたのは東日本大震災の時でした。震災後まだがれきの残る石巻市を、食べ物を車に積み、被災された方々に配布する場所に向かいました。
長い列ができ、足りるかどうか心配になりました。ある方が「家族が4人なので4人分欲しい」と言われました。私は4人分渡しました。そうすると、後ろの方から大きな声が聞こえました「それで最後の人の分まであるんでしょうね?」私は、その言葉に固まりました。足りるかどうか分かりません。私たちはそこからまた、一人1人分ということで配り始めました。しかし配っていると、繰り返し「家族の分が欲しい」という方が、来るのです。私たちはそれをお断りし、支援の食糧をお詫びしながら、配りました。その方たちはとても不満そうな顔をされていました。そしてそこで私は公平に配ること、公平であるということの難しさを実感したのです。いま考えても、どうしたら公平だったのか、まだ分かりません。
私たち人間はなるべく公平な基準を作ろうと努力します。しかしそれは本当に、いつも不公平な基準であると思うのです。公平ということは本当に難しいと思うのです。そしてその問いを受けるごとに、いつも何が公平なのだろうか、わからなくなるのです。
聖書の平和、シャロームは丸。公平である様子です。そのシャロームを作り出す、源とは何でしょうか。今日の個所よれば17節、平和は正義が作り出すとあります。正義が平和を作り出すのです。聖書の正義とはもともと、「まっすぐ」という意味の言葉です。まっすぐである、曲がりが無いという言葉が、転じて正義が行われるという言葉になりました。
しかし人間にはいつも「まっすぐ」がわからなくなります。私たちはどうしても、完全に公平なルールを作ることが出来ません。まっすぐでいられません。歪んだ基準で、人間の歪んだ物差しで、測ってしまうのです。本当の公平、つまり正義をご存知なのは、神様だけでしょう。
でも私たち人間にはわからないと諦めるのではありません。私たちは何とかそれに基準を合わせようと、近づこうとします。まっすぐであろうとします。私たちは必ず不完全である、でもだからこそ、完全な神を求め、神の正義を求め、まっすぐな神を求め、私たちの世界でどのように公平な社会を実現するかを神に求めるのです。シャロームを求めるのです。人間の力だけでは平和は実現しません。その源となる正義、まっすぐさが、私たちには足りないからです。でもあきらめずに一緒に目指してゆきたいと思うのです。
神様のまっすぐな正義を求める時、私たちは神様への信頼・信仰へと招かれてゆきます。そして私たちが一緒に神の正義を求める時、私たちの間にも豊かな信頼関係が生まれます。世界が手を取り合って、神の正義を求める時、私たちの間に信頼関係が生まれ、平和が訪れるのではないでしょうか。