ときどき、久しぶりに礼拝に来ることができたという方で「今日はようやく礼拝に来れました」と喜びの表情を見せて出さる方がいます。その方は、なかなか行けないという事ではなくて、その日、その時、礼拝に来ることができた事にたくさんの感謝しておられます。うれしそうな顔を見て、なんだか励まされる思いがあります。礼拝に来れたか、来れないかは大事です。礼拝無しで神様を覚え続けるのは本当に難しいからです。だから礼拝に来ることは大事です。しかし、それぞれが精一杯、日々の生活の中で神様を信じていくということも、同じくらい大切なことです。礼拝に来れたとしても、また来れなかったとしても、一緒に神様を忘れない、神様に信頼する毎日を、共に大切にしたいのです。そしてもし礼拝に来ることができたら、それを喜びたい。久しぶりに来た方たちの笑顔を見て、そう教えてもらいました。
イエス様は、神様に信頼して生きる。そのことを本当に大切にされた方です。イエス様はその生涯全体を通じて、神様の言葉が必ず実現するという信頼を持つようにと伝えておられます。
百人隊長は神様の言葉が必ず実現するという強い信頼を持っていました。そしてそれを自分の姿、自分の軍隊に重ねました。百人隊長はたとえ命の危険がある命令でも絶対に部下をその命令に従わせてきました。自分でさえ、百人の部下に完全に命令を実行させていたのです。だから、ましてや神様の命令がこの地上で実現しないわけがない。神様の言葉は必ず実現する、その信頼を彼は持っていました。だから一言のことばだけで充分だったのです。
イエス様はこれに感心したとあります。イエス様が人間の信仰に感心するのは福音書全体を通じてこの1回だけです。「これほどの信仰は見たことがない」「イスラエルの中でさえ見ない」と驚くのです。
もちろんそれはたくさん献金して会堂建てたから誉めているのではありません。礼拝に通っているから誉められたのではありません。彼がよいとされたのは、彼の神様に信頼するという姿です。神様の言葉は必ず、地上に、そして自分に実現すると信頼する姿です。その信頼する姿を見て、イエス様がよしとされたのです。
世界には苦しみがあふれています、矛盾や不合理や戦争があふれています。私たちの生活の中でも苦しみや矛盾や、不合理があふれています。しかし聖書によれば、それは必ず終わる時が来る、その苦しみや矛盾や、不合理が終わる時、泣いている人が笑う時は必ず来る、いやすでに一部はもう来ている、聖書はそのように語ります。それが世界で、教会で、私の人生で起こるのです。神様の言葉は必ず実現する。それが私たちの希望です。
私はふさわしいと思う人、ふさわしくないと思う人、どちらもいるでしょう。しかし神様はすべての人に神様の言葉は実現すると言います。あなたにもそれは実現するのです。それに信頼をして歩みましょう。