今日の聖書の個所では、悪霊に取りつかれていたという人が登場します。おそらく当時の人々は、心の病と悪霊とを分けませんでした。彼はおそらく心の病を持っていました。彼は鎖と足枷で拘束されました。彼は心の病気を抱えながらも、身体の自由が奪われるという二重の苦痛を受けなければなりませんでした。彼は監視もされました。誰かが助けてくれる、話を聞いてくれるという信頼。監視されるとはその信頼を奪ったのです。彼は人間らしく生きる条件、信頼・自由・希望・家族・名誉、すべてを奪われていたのです。
当時、ゲラサ地方はローマ帝国が支配していました。その支配とは、圧倒的な軍事力による支配でした。そのひとつの部隊、6000人の部隊の単位がレギオンと呼ばれていました。つまりローマの戦争と支配、軍事力の象徴が「レギオン(軍団)」だったのです。彼に取りついた悪霊は、自分の名前を戦争と支配と軍事力の象徴である「レギオン」と名のります。彼の心の病、それは「戦争」と「支配」と「暴力」に由来するものであったのでしょう。社会が戦争と支配と暴力にあふれ、彼の心は病んでいったのです。
ですから悪霊とは乗り移って病気を起こさせる者というだけではありません。戦争と支配と暴力の社会、抑圧の社会の中で生きなければならなかったこと、その圧迫こそが悪霊であったのです。それは社会全員がその圧迫を受けて、彼と同じ病気になる可能性があったということを示します。
イエス様はどのように、彼に関わったのでしょうか。人々は彼との接触を拒みました。かまわない、無視する、縛り付けるという態度でした。しかしイエス様はその彼と関わろうとするのです。舟にのって、み言葉を届けるために、嵐を超えてやってくるのです。そして逃げずに、名前を聞きます。孤独で取り残された彼との関係を作ります。そして、今何に苦しんでいるのか、何におびえ、何に支配されているのかを聞くのです。
イエス様は悪霊、支配しているものを追い出すお方です。癒して下さお方です。あなたを支配している力、あなたの本来の力を奪うものを追い出すのです。あなたを癒し、解放させ、自由にさせるのです。人々は縛り付け、足枷をはめます、しかしイエス様は解き放ち、自由になさるのです。
イエス様は今日、私たちにも、み言葉を届けてくださいます。解放の言葉を届けてくださいます。私たちも癒され、自由にされるのでしょうか。教会はあなたを癒し、自由にする力を神様から与えられています。みなさんは必ず神様に癒されます。イエス様があなたに出会い、そしてあなたは本来の姿に変えられてゆくのです。そして教会は人生の重荷を担っている方から逃げません。むしろその方に会いに行くのです。嵐のような日々の中でも、出会いに向かうのです。そして教会は誰も縛り付けません、誰にも足枷をはめません。教会はそれを取り払い、イエス様に出会って癒しと自由と解放をいただくのです。希望をいただくのです。教会はレギオンに負けないのです。