「神はすべてのものを良しとされた」  マルコによる福音書10章13-16節

キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教のいうところの「愛」とは何だろうか。それは「神の愛」のことだが、それはどんな愛なのだろうか?まず、「神の愛」とは、愛の対象はすべての人であること。そして無条件で一方的で、無限、永遠にあるものである。それは神の本質そのもの。神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である。神イコール愛。愛イコール神。そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と続く。神はすべてのものを良しとされた。これが究極の愛です。愛の表現である。

 卑近な例でお話ししよう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すりながらあやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった、いい言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」の「よし」はもちろん「良い」という意味の「よし」だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されているのである。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って言う。「おお、よしよし。すぐに良くなる、すべて良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるからね。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」。

 私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているけれど、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではなかったか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのだ。

 今日の聖書箇所もそうである。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。だから、叱ったのだ。「女子供の来るところではない」。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。

 その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。いわゆる「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。

 わが子が泣いているのに、なぜ母親は微笑んでいるのだろうか。親は知っているからだ。今泣いていても、すぐ泣き止むことを。今つらくともすぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日が来ることを。親は泣き叫ぶ子にそう言いたいのだ。

 「おお、よし、よし。大丈夫、心配ない。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱きしめなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれども生きることは本当に素晴らしい。大丈夫、心配ない。おまえを愛しているよ、おお、よし、よし」。

 存在の孤独に、生きていることの孤独に胸を締め付けられるような夜は、生みの親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくるのである。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところ。