「墓参り」は不要?

週刊「キリスト新聞」(キリスト新聞社発行)の人気連載「教会質問箱」がシリーズ化され、本として発行されたのが『教会では聞けない「21世紀」信仰問答Ⅰ』(キリスト新聞社 2013)。人間、悩みがあるのは生きている証拠、迷いがあるのは前に向かおうとしている姿。信者のみならず、未信者の方々の悩みや迷い、素朴な疑問に答えるというものです。

 その中の一つを要約して紹介します。「キリスト教では死者を拝むことがないので『墓参り』は不要ですか?」という70代の未信者の方の質問。

 回答:人の死に際してその死を悼み、葬りの儀礼を行い、墓に埋葬することは、古今東西、共通のこととして行われてきました。では、なぜそうするのでしょう。宗教によって、そのとらえ方は色々ですが、キリスト教では故人を拝むためではありません。愛する家族や肉親、友人……それらの人を大切に思っている気持ちの表れです。「墓参り」の本質は「拝みに行く」ということではなく、「故人と共にあった日々を懐かしく思い出す、忘れずに覚えている」あるいは「故人に対する感謝の気持ちを表す」ことにあるのではないでしょうか。ですから、キリスト教が墓参りを否定しているということもありません。キリスト教でも墓参りをし、一般的にされるように花を手向けます。そして、そこに集った皆で神さまに祈りをささげます。その意義は、故人を覚え、そのことを通して神さまに心を向けることにあります。以上です。

 以前、40代の息子さんを病気で亡くされた教会員で年配の女性から、家に十字架と息子の写真を飾っているが、その前で息子に語りかけていいか?と尋ねられたことがありました。私は、即座に、思う存分、語りかけてください。そして最後に神さまに感謝のお祈りをしてくださいと申し上げました。一連の葬儀、納骨、記念会、墓参りもそうですが、それはグリーフケア(近しい人を亡くし悲嘆にくれる人を癒やすため、心を解放し気持ちを整理する場を作る試み)となると思うからです。