今回、ある機会が与えられて、改めて自分の牧師としての牧会について振り返ることができた。教会員やその家族、あるいは教会に集う方々に対しての牧会だけでなく、出会ったホームレスの方々や生活困窮者に対する支援活動もしてきたが、私にとってそれは同じ地平線にあり、同じ理念、方針、考え方でやってきたし、その違いはないと思っている。ではその根底にあるものは何か?
それは何といっても、聖書のみ言葉である。では多くのことを教えられ、励まされ、支えられてきたみ言葉は?と考えて、すぐ頭に浮かんだのが次の5つのみ言葉だった。マルコ12:28-34「最も重要な教え」、マタイ25:35-40(今日の聖書箇所)、マタイ9:35-38「群衆に同情する」、マルコ2:17「医者を必要とするのは…」、マタイ7:7-12「求めなさい…」である。
私はこれらのみ言葉に聞きながら、牧会や相談、世話活動をしてきたと言っていい。支援する、される関係ではなく、ともに神に生かされている人間として接しよう。当事者の生きざまを尊重しつつ、相談、困りごとに耳を傾けよう。できるだけ共にいる、共に生きる(共生)関係でいよう(寄り添う、伴走する)。できることとできないことをはっきりさせながらフォローしよう。できないことは関係機関へつなげよう。積極的に協力者や助言者を求めよう。そして神にゆだねる。一人で背負いこまない。自分を大事にしないで隣人を大事にすることなんかできない。自分をも愛せないものが他人など愛せない、とも思う。神にいのちを与えられ、神によって生かされている、それはみな同じ。そして、そのままで丸ごと受け止めてくださる神への信頼、信仰にしっかり立っていこう、などなどである。これらの出どころはみんな、先ほど挙げたみ言葉などから導き出されたものである。
さらにそこで今度、新しく教えられたのが、今日の聖書箇所である。神を愛するとはどいうことだろうか、また隣人を愛するとはどいうことだろうか、と今まではどちらかというと別々に考えていた。今日の聖書箇所に出てくる「正しい人たち」も私と同じように別々に考えていた節がある。ところが、主イエスは同じことだ、神を愛することは隣人を愛することであり、隣人を愛することは神を愛することなのだと、はっきり言われるのである。これで今まで私の中でもやもやしたものがすっきり整理された。これからも、できることは限られているが、精いっぱい神を愛し、隣人を愛する信仰生活に励みたいと改めて思った次第である。