今日の聖書箇所の最後の場面で、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われているが、文字通り理解すれば、彼女自身の信仰によって、彼女自身を救った、ということになる。いわゆる自力本願か。では、本当に彼女は自らを救ったのか。キーワードになる彼女の信仰とは何だろうか。彼女は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)と記されている。さらに「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)とその動機が記されている。そこに彼女の信仰を見て取れないだろうか。
彼女の置かれていた状況を見てみよう。彼女は「十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけだった」(25~26節)とある。それ故、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思った」というのはよく理解できるし、自分だってそうしただろと思う。皆さんもこれ以上、説明はいらないと思う。押さえておきたいのは、彼女は「イエスのことを聞いて」(27節)、決断し、そのような行動を起こしたということである。彼女はあらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「イエスの服に触れ」る行為をしたのだ。ここに彼女の決断、すなわち信仰を見ることができるだろう。
私たちはこの時、彼女がどれだけ大きな障害、妨害、躊躇、ためらいを越えたかということを知らなくてはならないと思う。信仰とは、まず「聞いて」、そしてあらゆる障害、妨害を越えて決断し、行動していくことだ、ということを教えられる。
私たちに主イエスにもっと近く触れることを妨げるどんな障害があるだろうか。自分は無資格だ、無価値だ、能力がない、罪深い生活をしている、あるいは周囲の人々が妨害している、身近な人々の無理解がある、将来の不安があるなど言い訳がどんどん出てくる。しかし信仰はそれらのどの障害をも越えてイエスに接近する。「イエスのことを聞いて」、「『この方の服にでも触ればいやしていただける』と思った」という彼女のイエスに対する確信、信頼こそ、あらゆる障害をも越えてイエスに接近させた。逆に言えば、彼女は主イエス・キリストの愛に捉えられたのだ。この主の愛を妨害できるものは何もない。全ての障害は有限なもの。どんな躓きも限りあるもの。しかし主イエスの愛は無限。恵みの愛は無限である。この無限な愛と恵みと救いの力に捉えられて、限りある障害を越えていったのだ。
信仰は誰にとっても、常に、障害を越えて行かなければならないものだ。信仰生活で試練を受けない生活はない。しかし越えることの出来ない障害は何一つないのも事実。主イエス・キリストの愛に捉えられ、癒しを受け取る信仰にとって、越えることのできない障害は、何一つない。主の愛と癒しの力が、あらゆる障害を越えて、私たちを捉え、生かしてくださるからである。
このように見てくると、救われた本当の意味で彼女を救ったのは、彼女自身の力ではなく、「主イエスご自身の中に働いている癒しの力」だった、ということがわかる。30節に「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とある通りである。29節に「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とある。この女性は、主イエスの癒しの力をその身に感じた。自分の体、自分の内に、キリストの力の働きを感じ取ることが出来た。彼女は、自分自身の力を感じたのではない。主の力を感じ取ったのだ。それこそ信仰の偉大な能力である。信仰によって主の力が感じ取られ、救いが「私のもの」となったのだ。罪を赦され、神の子とされ、生かされているのを自分のこととして受け取り、感じ取ることができる。それが癒しを受け取る信仰の能力である。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主の言葉を受けて、家路につける人は幸いである。その人は喜びを持って生きることが出来る。主の恵みの証人として、前進することが出来る。私たちもこの女性のように、あらゆる障害を越えて、確信を持ち、主に信頼して、安心をもって前進したいと思う。