ヨハネは「わたしがあなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである」(7節)と記している。ヨハネの手紙とヨハネ福音書の間には関係があると言われている。だから、この「古い戒め」とは、ヨハネ福音書に記録されている「イエスの告別説教」にある戒めと考えられる。ヨハネ福音書15章12節に「私の戒めは、これである。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とある。「古い戒め」とはこの「互いに愛し合いなさい」という教えだといえるだろう。
ここで、ヨハネがあえて「古い戒め」と記しているのは、教会に混乱をもたらした異端者たちが、教会に伝えられてきた教えを「古いもの」と言っていたからだ。つまり、異端者たちは「互いに愛し合いなさい」という教えはすでに古くなった過去のものだからもう捨てても構わないと教えたのだ。そしてそれは、キリストの弟子たちが互いに愛し合うことを否定することだった。
異端者たちはイエスの教えを古くなったと退け、自分たちの教えを新しいものであり価値のあるものだと教えた。そしてその教えによって教会の中に対立が起こり、教会の交わりが壊れ憎しみが起こった。その教えは「愛」を欠くものだった。
パウロはコリントの教会を悩ませた異端者たちを「自分で自分を推薦する人」(第二コリント10:17)と指摘しているが、ヨハネの教会に現れた異端者たちにも同じ傾向にあったようだ。彼らの関心は、自分を推薦すること、自分自身で光り輝くことだった。私たちも「光り輝きたい」「認められたい」「愛されたい」という思いを持っている。しかし、自分自身が光り輝くために他者を否定するということは許されない。異端者たちは「兄弟を憎む」、つまり他者を人格的に否定したのだ。ここには愛が欠けている。
ヨハネは「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、闇の中にいるのである」(9節)と言う。異端者たちは「私たちは光の中にいる」と主張していたのだろう。そして異端者たちは「(私たちは)彼を知っている」(4節)と言い、「(私たちは)彼におる」(6節)と言った。この彼とはイエスのことだ。異端者たちは自分たちこそイエスのことを知っている者であり、イエスに属していると主張したのだ。これに対してヨハネは「イエスを知っているという者は、イエスの戒めを守るものである」(4節参照)と記す。また、「『彼(イエス)におる』という者は、彼(イエス)が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」(6節)と記している。
ヨハネは、この世に肉の体を持ってこられたイエスの歩みに目を向けることの大切さを示している。ヨハネ福音書によればイエスは最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗い、「主であり、また教師である私が、あなた方の足を洗ったからには、あなた方もまた、互いに足を洗い合うべきである」(13:14)と言われた。イエスは行いによって御心を示し、ご自身の行いに倣うことを弟子に求められたのである。
異端者たちは歴史の中を歩まれたイエスの姿を見ようとしなかった。もし、イエスの地上の生涯に目を向けるなら、イエスが愛を第一にして行動していたことがわかるだろう。イエスのようには歩めない人間の現実、しかし、イエスに倣って歩もうとする者は、私たちに注がれた神の愛の尊さを知る者となるだろう。
ヨハネの教会のメンバーの中には、新しいものを求めた人がいた。そして、彼らは異端の教えを受け入れてしまった。ヨハネはそのような人たちを「自分ではどこに行くのかわからない」人々であると言う。第一コリント13章の「愛の賛歌」には「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(13節)とある。「互いに愛し合いなさい」という教えは、常に変わることのないイエスの教えである。真理は変わることがない。
原点を見失ったとき人は自分がどこにいるのかも、どこに向かっているのかもわからなくなってしまう。ヨハネは教会の人々に、古くて新しい教え、教会の交わりの原点となるイエスの教えを伝えたのである。