「愛には恐れがない」 ヨハネの手紙一4章7-21節


 ギリシア語には「愛」を表わす言葉が四つある。主に男女の愛を表わす「エロース」。友情、友愛を示す「フィリオ」。親が子を愛する愛「ストルケー」。そして神の愛「アガペー」。十字架によって示された神の愛を表わすのに、「エロース」も「ストルケー」も「フィリオ」も適当ではなかった。なぜなら、これらの愛はどれも自分にとっての価値あるものに対する愛だったからだ。しかし、神が人を愛するというのは、相手の価値を問わない愛なのだ。この価値なき者への愛という、新しい意味を「アガペー」という言葉で表した。

 「アガペー」に示された神の愛は、対象によって起される愛ではない。「エロース」の愛などは、愛する対象の美しさや魅力といった相手の価値によって引き起こされる愛である。しかし、神の愛は対象によって引き起こされる愛ではない。「神は愛なり」(4:8,16)といわれる神からあふれ出る愛なのだ。

 ヨハネは神の愛が私たちの愛に先立っていることを示している。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、…」(4:10)とある。私たちの常識は、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考えがちだが、聖書は、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まるとするのである。しかも私たちが愛されたとは、私たちの罪を贖ういけにえとして御子が遣わされたことだとヨハネの手紙は言う。神の愛の後ろには、私たちの罪のために死んでくださるお方がおいでになるということは、決して尋常なことではない。ここで言われる罪(ハマルティア、的外れ)とは、神への背信を意味する。にもかかわらず、不信仰なる者のために御子であるお方のいのちが捧げられたということは本当に尋常なことではないことが分かる。それが神の私たちへの愛の形である。私たちはこれをお願いして、そうしてくださいと言ったわけではない。それどころか、そんなことが私たちのためになされたということすら知らない。それが私たちへの神の愛し方であると言われているのである。これが聖書の常識で、この常識をわがものとすること、我がこととして受け入れ、信じることが信仰である。

 さらに、この神の愛は「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(4:18)と書いてある。愛とは、徹底して相手の存在を肯定すること。神が私たちを愛してくださったとは、まさしくそのことを意味する。存在を肯定するとは、ある事をすればよしとされ、違うことをすればだめだとされるのと違う。愛は相手の価値を問わない。どのような在り方があろうと、そこに「いる」ことがよしとされる、それが存在を肯定されることである。神の愛とは、そういう愛である。99匹の羊を野に残して、一匹を探す羊飼いの姿にこの愛を見るだろう(ルカ15章)。
 
 どこまで行っても「いる」ことが愛されている、これが神から愛されていることだと信じる信仰はどのようなあり方をしていようと、安心感を持つ。たとえ心配で眠れない夜を過ごすようなことがあっても、「いる」ことが肯定されていれば、心配をしなくなるというより、心配をする自分を受け入れることができるだろう。さらに言えば、そのような事態になれば、心配をしないならば事は解決をしないのだから、むしろ心配をするのが当然であるという心境に至ることができる。その心配する私という存在をそのまま丸ごと愛してくださるお方がおられる。何と心強いことだろう、なんという慰めだろう。それこそ、「完全な愛は恐れを締め出す」と言えるだろう。