「あなたがたは神の神殿」 コリントの信徒への手紙一3章10-17節

 パウロは教会のことを様々な言葉で表現している。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」(10節)と言い、自分を建築家、教会を建物にたとえている。そして、この建物で要となるのはイエス・キリストという土台であると。

 しかし、次に問題となるのは、この土台の上にどのような素材を用いて家を建てるかだ。例として、金、銀、宝石、木、草、わらの六つがあげられているが、それぞれの家が試され、真価を問われる日が来る。それは「かの日」(13節)、つまり、キリストの再臨される日で、その日に各々の建築家の仕事ぶりが火によって試されるのだ、という。

 パウロはその話を何のためにしているのか。教会の働きの中身が問題だ、ということだろう。「あなたがたは……知らないのですか」(16節)とパウロは問うている。そして「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(16節)と教え、教会は神の霊の住みたもう神殿、聖なるものである(17節)ということ、これこそ決定的に重要なことだ、と言うのである。

 ここでパウロは「あなた方」と複数形で言っている。教会はギリシア語で「エクレシア」という。「神から召し集められた者」という意味を持つ。イエス・キリストによって召し集められた人々の集まりをいう。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません、あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と、パウロが書いている。また、主イエスは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われている。それが教会。

 私たちの教会は、交わりの中に祈りがあり、神の霊が住んでいてくださり、聖なるもの、神のものとされているだろうか。教会はこの聖霊によって生かされている。先週の説教で話したが、教会の土台としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに、教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくということ。同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちは教えられた。その私たちの祈りの交わりの中に聖霊が働き、私たち一人ひとりが生き生きとされていくのではないだろうか。そのような一人ひとりが輝いて生きる群れとしての教会を建て上げていきたいものだ。