「神は私たちの避けどころ」 詩編46篇1-12節

詩編46篇に繰り返し告白されるのは「万軍の主は私たちと共にいます」(8,12節)という信仰告白である。「万軍の」というのは、「力に満ちた」という意味。「力みなぎる主が私たちと共にいます」ということ。このことが私たちの人生と世界の混乱や危険の中で、あるいは動乱の予感や不安の中で、私たちの避けどころとなり、私たちの砦となっていると告白しているのである。「万軍の主が私たちと共にいます」。だから、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」(2節)のであり、これを信じて、「私たちは決して恐れない」(3節)と詩人は歌うのである。
 
 私たちの人生にも、いろいろな危険や混乱がある。現在だけでなく、将来の不安もある。個人の生活だけではなく、超高齢社会となり少子化の進む日本はこれからどうなるのだろうとか、あるいは中東をはじめあちこちの紛争はどうなるのだろうか、地球温暖化は、資源の枯渇は…、不安や心配はきりがない。しかしこの詩人はこう歌う。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、あるいはすべての民が騒ぎ、国々が揺らぐとも、「苦難の時、必ずそこにいて助けて下さる」(2節)、それゆえ「私たちは決して恐れない」(3節)。そのように心に信じ、周囲に告白している。危険を見くびっているのではない。神が「私たちの避けどころ」であり、「万軍の主は私たちと共にいます」から、「決して恐れない」ということができるのであり、それは生きる力、勇気、希望、平安が与えられるからこそであり、だから今度は自分の人生や社会の様々な混乱、不安、問題に立ち向かうことができるのである。

 重大なのは「神が共にいます」という「現実」がどこにあるかではないか。そしてその現実の中にどう生きるかだろう。どうしたら「神が共に、万軍の主が私たちと共にいます」という現実が分かり、「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と分かるのか。神がその中にいます「場所」があるという。「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない」(6節)と詩人は告白している。普遍的で超越的な神、天地の創造者である神が、「ある場所にいる」というのは不思議なことかもしれない。この世の中には神をとどめておけるような場所はどこにもないはず。しかし超越的で自由な神が、身を低くして「その中にいまして」くださるのである。そして「万軍の主は私たちと共にいます」「苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」という現実を与えてくださるのである。一方的な憐みによってご自分を低くし、私たちに顔を向け、私たちと共にいてくださるのである。

 どこで?「いと高き神のいます聖所に」「神の都に」とあるように、「神の」とあるから、神が支配される場所で、その意味で神の国の栄光にあずかっているところとして、それを教会の中に、礼拝の中にと受け取ることはできないだろうか。教会はキリストの体であり、キリストは教会の頭であるといわれる。その教会では、み言葉が語られ、祈りがささげられ、主が賛美され、感謝と献身の思いがささげられる。さらにキリストの体に共に与る聖礼典が行われる。それは神が共にいて下さり、神の愛の配慮と導きがあってのことである。万軍の主であるイエス・キリストによって実現しているのことである。イエス・キリストがおられ、その言葉、その働き、その十字架、そしてその復活の体に与るところ、それが教会、それが礼拝。その教会につながるとき、それはイエス・キリストにつながるときであるが、「神は私たちの避けどころ、苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」と告白することができる。主イエスにつながるとき、「私たちは決して恐れない」と言うことができる。それは主ご自身が万軍の主であり、主ご自身が戦って下さるからである。主ご自身がすべてを引き受けて下さるからである。その主にすべてをゆだねるのである。

 「力を捨てよ、知れ、私は神」とも書かれている。「力を捨てよ」とは「手出しを止めよ」と訳してもいい。主にゆだねよ、主に任せよということになるだろう。肩の荷を下ろそう。肩の力を