ペテロはどんな人物だったのだろうか。1,2節を見ると、群衆は皆イエスから神の言葉を聞こうと思って押し寄せているのに、ペテロは一生懸命網を洗っていた。ペテロという人は、神の言葉とか信仰とかいうものに対して、無関心または背を向けていたと思われる。俗物というか、魚一匹とるほうを大事とする態度がうかがえる。みんながイエスに神の言葉を求めている時に、彼は背を向けていた人物であった。
神の言葉に背を向けていたペテロがどうして信仰に入り、イエスの弟子になったか、それは彼が、一つの事実に出会ったからである。ペテロたちは漁師だった。漁のことは専門家である。この湖で魚を獲ることで生活を立てている。そのペテロたちが一晩中網を打ったのだが、何も取れなかった。みんな不機嫌、黙って網を洗っていた。そこへ突然言われたのだ。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。冗談じゃないよ、見たらわかるだろう。自分たちがどんな思いで網を洗っているか。偉い先生かもしれないが、魚を取ることについて指示を言われたくはない。「夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」、という言葉にその気持ちが表れている。こんな日もある。いい日もあれば悪い日もある。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とペテロは言った。
ぶつくさ言いながら、ペテロは仲間をうながし立ち上がった。彼らはこの先生を信じたのではない。この偉い先生に思い知らせてやろう、と考えたのかもしれない。おっしゃる通り沖に出て、ご指示に従って網を降ろしてみましょう。その上でカラの網を見せて、こう言ってやりたい。「ほうら、ごらんの通り。わかっていただけましたか、先生」。ペテロたちは信仰のゆえに従ったのではなく、不信仰のゆえに従ったというべきか。
結果は思いもかけないものだった。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。ペテロたちは何にも期待していなかった。しかし、イエスに言われ、しぶしぶ「やってみた」のである。やってみると思いがけない収穫があった。この出来事はキリストの言葉と弟子たちの関わりを言っている。ペテロは、自分で考え決意して、「やってみた」のではない。キリストの言葉にうながされて「やってみた」のだ。不承不承。仕方なしに。腹を立てて。
しかし、やってみると現実が動いた。動かないとあきらめていた現実が動いた。網が破れるほどの収穫。長い間漁師をしていた彼には考えられないことであり、人知をはるかに超えたものであった。人間の受け止め切れない祝福が与えられた。その時、彼は今までの意地を張っていた生活、むやみに反発していた生活が、いかに愚かなことであるかがわかった。その時ペテロは、自分の罪を認識した。罪を責められて自分の罪を認識したのではない。祝福を与えられて、自分の罪を知ったのである。「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」(8節)。
信仰生活は、人知を超えた神の力、働きにふれることがなくては始まらない。そこから信仰は始まってくるのである。私たちが神を必要としているとか、信仰生活をするのが良いとか、そういうことが信仰の原動力ではない。神が私に迫ってきたから信仰せざるを得なくなる、そういうものが、私たちの中に起こされてくるところに信仰の原点がある。
キリストの言葉は、私たちを祝福する言葉である。私たちの空虚を満たす言葉である。約束の言葉である。キリストの言葉に生きてみるとき、その言葉の威力を知る。その言葉の真実に目を開かれる。キリストの言葉に、魔術的な力があるわけではない。キリストの言葉には、その言葉を語る方が伴っていて下さるのである。キリストの言葉には生きておられるキリストが伴っていてくださるのである。だから言葉には力があるのだ。神の言は、ただそこに、たとえば石ころのように在るのではない。それは、私たちに語りかけられているのだ。キリストの約束の言葉、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」は、私たちに語りかけられている言葉である。
では、いったいどうすれば、その変革に、また神に出会うことができるか。それは「しかし、お言葉ですから……そのとおりにする」ということに鍵がある。キリスト教はどこまでも約束の宗教であり、その約束を履行することが一番大事である。その通りしてみた時に、はじめて聖書の言葉が本当かうそかがわかる。日常性の諦めの中にとどまらず、やってみなければ始まらない。漕ぎ出してみるのだ。その言葉を聞いた者として生きてみるのだ。
私たちは神の力を知らず、神の言葉を思想化し、観念化して、キリスト教の教えはこうだ、私たちはこうすべきだと言っているだけではだめである。神は生きておられる。神の約束には間違いはない。その通りにやってみるという信仰の飛躍、み言葉に聴従することによってのみ私たちの信仰は開かれていく。
やってみる。一切は、そこから始まる。「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」(マタイ24~25)。やってみてはじめて身につくもの。その言葉を生きてみてその味わいの深まってくるもの。それが神の言葉である。