聖句断想

 小島誠志牧師の書かれた『愛に根ざして生きる――聖句断想2』(教文館、2004)を時々拾い読みしている。なるほどと感心したり、教えられたりすることが多い。小島牧師は、「断想」としたのは、釈義とか注釈ではなく聖句に喚起された短い随想という意味を込めた、と「あとがき」に書かれている。簡潔でやさしい文章である。いくつか紹介したい。

 「だれも気を落としてはなりません」(サムエル記上17:32)…「気」を「落とす」とはなんという言葉でしょう。「気」は人を生かしている内なる力であります。人生のカベを自力で突破しようとすればかならず「気を落とす」ことになるでしょう。カベは神が突破してくださいます。人はその後につくのです。信仰は先走ろうとする自分をくりかえし神の後ろにひき据える働きであります。

 「偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」(マタイ6:16)…断食は悲しみや苦しみを神に訴える仕方であります。断食しながら、人に自分の悲しみを理解してもらい、慰めてもらおうとする甘えに対して、キリストは警告しています。人の慰めを求めるとき、神の慰めを失うのです。

 「味わい、見よ、主の恵み深さを」(詩編34:9)…主の恵みは味わい深いものであります。簡単に、人の知恵で推しはかることはできません。つらい、悲しいと思われる事柄の中にも、かならず恵みは隠されているのであります。それはやがて思いがけない形で現れ、わたしたちの人生を底から変えるものになります。

 「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取る」(第二コリント9:6)…多く種まくものが、多くを刈りとる。あたりまえの話であります。種まく労苦なしに収穫の喜びはありません。神への献げもののことを言っています。

 小島牧師は「聖句に喚起された」と言われるが、どんな読み方をされるのだろか。自分の中を空っぽにして、じかに聖句とじっくり向き合うのだろうか。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳、詩編46:10)