「裏切る」という言葉はギリシャ語では「引き渡す」という意味で、新共同訳聖書では「裏切る」と「引き渡す」を場面に応じて訳し変えているが、同じ言葉である。だから、裏切りの行為は引き渡しの行為ということになる。その言葉は、すでにイエスの受難予告のところで2回出ている(マルコ9:31、10:33)。
この「引き渡す」という言葉は、マルコ福音書では10回使われているが、ユダに対して5回、祭司長たちに対して2回、ピラトが1回、人の子(イエス)が「引き渡される」と受身形で2回使われている。これを見ると、ユダだけが「引き渡す行為」を行ったのではないことが分かる。もちろん、ユダがイエスを「引き渡す」ことが出発となって、祭司長たち、続いてピラトも「引き渡す行為」に加わっていくわけだが、これを図式化すれば、「ユダはイエスを祭司長たちに引き渡し」、続いて「祭司長たちはイエスをピラトに引き渡し」、そして最後に「ピラトはイエスを十字架に引き渡した」となる。このように「引き渡し」が人の手から人の手へと、つぎつぎと行われていることが読み取れる。受難物語は、実はユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される出来事を描いているものなのである。
ところで、この受難物語は聖書には書いてないが続きがある。ユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される。そして主イエスは十字架につけられた。真実に言うならば「今もつけられている」。今も血を流しておられる。なぜなら、この私が、私たちがピラトに続いてイエスを「引き渡している」からである。
それはパウロが、第一コリント1章23節や2章2節、ガラテヤ3章1節などで「十字架につけられた」と記しているところがあるが、それは過去のある一点で十字架につけられたという意味での過去の動作を示すアオリスト形の分詞ではなくて、現在完了形の分詞で書かれている。ということはすなわち、パウロは、単に「過去のある一点で十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えているというのではなくて、「今もなお十字架につけられたままでおられるキリスト」を宣べ伝えている、という意味なのである。つまり、キリストは今も、私たちの弱さ、欠け、醜さ、罪、とがを担い続けておられる方なのだ、とパウロは言っているのである。
さて、この「引き渡す」という言葉は、同時に「ゆだねる」、「任せる」という意味を持っている。むしろそちらのほうがこの場面では正確かもしれない。受難物語における一連の出来事は「ゆだねる」物語なのである。何にゆだねるのか、それは神の救いのドラマにゆだねるということ。イエスの受難の表の舞台では、ユダ、祭司長たち、そしてピラトと群衆がドラマを演じている。いや、演じさせられている。しかし、裏の舞台では神の救いのドラマが進行しているのである。「引き渡される」イエスが主役となって、もう一つの脚本、いわば神の救いの脚本に従ってドラマが進んでいるのである。
金子みすゞの詩に「大漁」というのがある。「朝焼け小焼けだ/大漁だ/大羽鰮の/大漁だ。浜は祭りの/ようだけど/海のなかでは/何万の/鰮のとむらい/するだろう。」
このように、目に見える人間の営みは今も悲喜こもごも続いている。しかし、海の底では、見えないところでは、今も主イエスが十字架上で私たちのために血を流しておられるのである。今も、キリストは十字架につけられ、われわれの罪のあがないのために血を流しておられる。今も我に来よ、と私たちに呼びかけておられるのである。