「苦難の僕イエス」 イザヤ書53章1-6節

 私たちは、どのようにも先の見えない苦しみに遭う時、運命と諦めるのだろうか、何かの報いであると恨めしげに我が身を振り返るのだろうか。どのようにしても解決の目途が立たず、絶望だけが駆け巡る時、どうすればよいのだろうか。もしそのような時、代わって苦しみを負う存在があれば、これこそ究極の答えとなるであろう。
 
 この預言者イザヤが語る「神の僕」の姿は、独自の道を歩み続け、ここに至ってついに「異様な」までの姿にまでなる。「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」(52:14)ほど。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(53:2)。およそ人間的ないかなる魅力も、美点もない。それゆえに「軽蔑され、人々に捨てられ」、「多くの痛みを負い、病を知っている」(53:3)のである。しかも、その「神の手にかかり、打たれたから」(53:4)だとされている。あえて、神がそれをなしたと理解されていることに注目したい。それゆえにその「僕」が、「屠り場に引かれる子羊のように」「口を開かず」(53:7)、「捕らえられ、裁きを受けて…命をとられた」(53:8)のだった。

 いったいこの「僕」とは、誰なのだろうか。イザヤは、そのようなお方がメシアとしておいでになるのだと告げている。「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった」(53:4)とイザヤは言う。病をいやすのではない。痛みを和らげるのでもない。病も痛みも、もはや消えることがない時、これ以上の答えがあるだろうか。そのようなお方は、ついには私たちが生きるためにご自身の死を提供して下さるお方である。イザヤの言葉は、そうまでして私たちに答えをくださるお方がおいでになることを教えている。

 このメシア像は、新約のキリストにおいて成就することになる。人々の罪を一身に引き受けたこの僕の姿は、実は神ご自身の姿だったということをこの預言者イザヤは気づいている。それから数百年がたった時、イエスが十字架にかけられる姿を見た人々は、あの苦難の僕の姿は、イエスの姿のことだったと理解して、聖書のこの預言の個所を読み直したのだ。それによって、神ご自身が苦しみを負うことで、私たちが生きることができる、ということの意味を体験した。

 苦難を経、十字架の死を遂げられることによって、人々の苦難を共にし、また人々の苦難を徹底して我が身に引き受けて下さるお方をメシアと見るのである。ある神学者は、聖書の神は「共に苦しむ神である」と言う。苦難の僕を主イエス・キリストに見るからである。そのような共に苦しむお方がおいでになるので、前途暗澹たる思いの中で途方に暮れる時、なお生きる勇気が与えられるのである。