ナオミと一緒に祖国に帰ってきたルツはボアズと結婚し、子どもが生まれる。その男の子を見て、ベツレヘムの女たちはナオミに言う。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう」(14-15節)。高齢者の問題はただ生活の支えの問題だけでなく、「魂を生き返らせる」のでなければならないだろう。ルツ記が示す幸いな結末の背後には、主なる神がおられる。「主をたたえよ」「主はあなたを見捨てない」というのである。すべての背後にあって導いておられるのは「主なる神」であり、その「慈しみ」である。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」(2:20)がおられ、その「御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださる」(2:12)主がおられる。そのお方が信仰者の人生と家族を歴史の中で導いてくださる。神のこの慈しみは、ボアズやルツを通し、またその出会いや、共同体のあり方を通して示された。神の慈しみが時代の激動の中の家族を支えた。それがルツ記が告げている信仰のメッセージ。
しかしルツ記のメッセージはそれだけではない。生まれた子どもはオベドと言い、その子はダビデの祖父になったと言われる。ベツレヘムの女たちが言った「イスラエルでその子の名が挙げられますように」という祝福の言葉は、その子がダビデの祖父になることによって実現する。ルツ記は確かにナオミとルツの物語である。しかし彼らはダビデの誕生に用いられる。ルツはダビデの曽祖母になる。「魂を生き返らされる」ということは、ただ個人的な人生が満ち足りるという話ではなく、「神の救いの歴史」に用いられることである。もちろんナオミもルツはダビデを見ていない。系譜で言えば四代先、100年先の話。ある人は、ルツ記は100年先を喜ぶ信仰に生きたと言う。このルツ記の系譜をマタイによる福音書は取り入れ、ダビデからさらにイエス・キリストに辿った。そこでは神の救済の歴史は、ダビデで終わらず、イエス・キリストに至る。イエス・キリストは神と一つであり、神であって、世の終わりまで生きて実在し、共にいてくださるインマヌエルの神。神の救済史はイエス・キリストによって、世の終わり、神の国のまったき到来までを視野に収めている。
そうすると、信仰によってあずかる「救い」とは何だろうか。その一つは、神の慈しみに生かされ、その実に与ること。ルツ記が知らせるように、私たちも今その実に与っている。主にある共同体の助けを通して、あるいはそこに生きるボアズのような信仰的に誠実な人を通して、あるいはルツのような「あなたを愛する」(15節)人を通して。「たまたま」(2:3)起きる人との出会いや出来事を通して、背後に働く神の慈しみの実に与る。
ルツ記は同時に、もう一つ、当事者たちがなおその実現を見ていない遥かな将来の実があることをも語っている。それは、大きな神の目的に用いられる信仰、救いの歴史の成就を遥かに望み見る信仰を語っている。ルツの生んだ子はダビデの祖父になったのだ、と。聖書は、一つは「今の救い」を告げる。神の慈しみとその果実は今既に与えられている。しかし同時に聖書は、より大きな神の目的の文脈を語る。それは、あなたは個人として救いに与っているだけでなく、神の大きな救済史のご計画に与り、用いられていると語っている。
今既に恵みに生きる信仰と遥かに望み見る信仰、感謝の信仰と希望の信仰、この二重の信仰は、イエス・キリストに結ばれたキリスト者にこそ当てはまる。バプテスマによってキリストと結ばれた私たちは、すでにキリストと共に死に、その復活の命に与り、神の子とされている。このことを感謝し、喜んでいる。しかし同時に、私たちは神の子とされて「体の贖われること」を待ち望んでいる(ローマ8:23)。それはローマの信徒への手紙によれば、人間以外の被造物も、滅びへの隷属から解放されて、「神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」(8:21)ことを望んでいると言われるのである。万物の救いの時を希望しているわけである。「わたしたちは、このような希望によって救われている」(8:24)とも言われる。今既にキリストに結ばれ、キリストと共にいる恵みに感謝し、さらに「体の贖われること」、そして「神の国のまったき到来」と「万物の救済」を望み見ている。そういう感謝の信仰と希望の信仰を与えられていることを覚え、この信仰をこれからも歩んでいきたいと思う。