この23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑い、どうしようもない行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきた。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して「主がそれをなしてくださった」と告白しているからである。そしてそれが私たちの希望であり、信仰の立ち所なのであることを教えてくれる。
羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景である。しかしながら、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかの確認の歌でもあることに気付かされる。「主はわたしを……」「あなたがわたしを……」「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方、主であると告白しているのである。
主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な労働を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。
親が子に対して、どれだけの代償を払い、子どもの気づかないところでいろいろな世話をし、養育してくれたか、子どもは何も知らず、気づかずに過ごしていることがあるが、そのことを思わせられる。ことわざに「親の恩、子知らず」とある。 「神の恵み、人知らず」ではないか。
私たちは教会生活、信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力も感じない。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っていることからは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。
信仰は気づかなければならない。しかし、気づかせてくださるのは聖霊の働きである。気づいて、「ああ、そうだったのか」とあらためて確認し、新しく主と出会う。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置くという、そこに立つことが大事。
そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。
5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっているのである。いや、追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださるのだ(6節)。これにまさる喜び、感謝はない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。