クリスマスがイエス・キリストの誕生の日であり、それを記念していることは誰もが知っている。それでは、クリスマスにどんな意味があるのかということになると、誰もが理解し、納得しているわけではない。クリスマスの意味は?それはイエス・キリストが何のために生まれてきたのか、イエス・キリストの誕生の目的は何であったのかということになるだろう。クリスマスを本当の意味で理解し、祝うためには、イエス・キリストの誕生の目的を知り、しかもそれが今日の私たちにどういう関りがあるかを知ることが必要である。このことが分かると、私たち自身の人生についても、自分がなぜ生まれてきたのか、自分の人生の目的についても理解することができるだろう。
マタイ福音書はイエス・キリストの誕生の目的をイエスにあてられた「名」を手掛かりに示している。そこには「二つの名」が記されている。一つは、ヨセフの夢に現れた天使が告げた名。21節に「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」。もう一つは預言者を通して言われた名として「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(23節)。一方の名は天使から、他方の名は預言者からという仕方なので、この名は神のみ心とご計画とが示されていると考えていいだろう。
「その名をイエスと名づけなさい」という天使の命令は、「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」という理由が告げられている。「イエス」の意味は「救い」あるいは「彼は救う」という意味を持っている。だから「彼は己の民を救う者となる」と言われているわけである。この名から言うとイエス・キリストの誕生の目的は、「ご自分の民を救うこと」にあるということになる。
このことに対応して、マタイ福音書はやがて最後の晩餐のことを伝える(26:28)。そこでは、主は十字架にかかってご自分が流す「血」と最後の晩餐の「ぶどう酒」を結び合わせて、「多くの人のために流す私の契約の血」と語るのだが、マタイ福音書はその個所に他の福音書にはない、「罪の赦しを得させるように」という言葉を付け加えている。「イエス」という名が示しているキリスト誕生の目的は、主のものとされた民が罪赦されることであり、そのために十字架上に血を流すこと、そのためにキリストは誕生したというのである。
それではもう一つの名「インマヌエル」という名はどんな目的を示しているのだろうか。この名は「神我らと共にいます」という意味である(23節)。このことを目的としてイエス・キリストは誕生したというのである。主イエスの生涯は、この「インマヌエル」の名の通り、神が我らと共におられる生涯だった。主イエスの御言葉も色々な行為も「神が我らと共にいます」ことを示していた。主イエスが病人を癒されたとき、神の恵みの力が働いた。主イエスが徴税人を招いて共に食事をされた時、神が共におられて神の国の食事の前触れが起きたのである。
この「共にいます」という言葉は、実はこのマタイ福音書の最後にも記されている。それは十字架にかけられ復活し、そして天に高く挙げられた主イエスの言葉として書かれている。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。キリストの生涯を記したこの福音書の最初と最後に同じ言葉が書かれているということは、キリスト誕生の目的は、主がただ十字架にかかるためだけではなく、十字架にかかった方として復活し、高く挙げられ、高く挙げられた方として「いつも私たちと共におられるため」であった、と言えるだろう。高く挙げられ、神と一つにされた主イエスは「いつも」、だから「今日も」私たちと共におられる。高く挙げられた方は神と同一の方で、あらゆる時と場所との制約を超えて、普遍的に偏在されるお方。それゆえ今ここに共におられる。キリストは今、私たちに臨在しておられる。そのことによって、十字架による罪の赦しが今日の私たちにも与えられる。
主イエスの誕生の目的が、今日、そして世の終わりまで私たちと共におられるためであったいうことは、私たちの人生の目的をはっきりさせることになるのではないだろうか。私たちは何のために生まれてきたのか。人生の目的は何か。主イエスの誕生の目的が「神我らと共にいます」ということ、そのために「罪からの救い」を与えることであれば、私たちの誕生の目的は「私たちも神と共にいるため」ではないか。そのために私たちは生まれ、そのために私たちは罪を赦されたのである。このことを信じ、感謝して受け入れたいと思う。罪赦され、神と共に生きる人生を感謝したいと思う。そのためにキリストがこの世に来られた、お生まれになった、このクリスマスの出来事を喜びを持って心からお祝いしよう。