救い主の誕生に際して、対照的な二人の人物が描かれている。一人は三人の占星術の学者たち、もう一人は当時のユダヤの王ヘロデである。占星術の学者たちは東の国、東メソポタミアからやって来た。そのメソポタミアの世界では、星を観察するということが盛んに行われて、星の動きによって地上に起こるすべてのことを占っていた。今でいう天文学者である。
その三人の占星術の学者たちが一つの星を見上げて新しい王の誕生を信じ、旅立った。彼らが新しい王を捜し求めてエルサレムのヘロデ王の住む宮殿に来たのは、至極当然のことであろう。新しい王は王の宮殿に生まれる、そう考えたからである。彼らはヘロデ王に尋ねた。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」。新しい王の誕生というニュースは、ヘロデ王にとっては驚きであり、警戒すべきものだった。なぜなら、ローマの支配に反乱を企てる人物がたびたび出現していて、そういう人物を待望し担ぎ上げる雰囲気が、当時のユダヤの民衆の中に蔓延していたからである。
自分の地位が脅かされる。だから不安を感じた。彼は祭司長や律法学者たちを集めて、メシア(救い主)はどこに生まれるのか、「問いただした」。「問いただした」という言葉にヘロデの不安がにじみ出ている。なんとしてでも捜し出そう、そういう思いである。
その場所はユダヤのベツレヘムだと聞くと、ヘロデ王は学者に言う。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」(8節)。「行って拝もう」というのは口実で、なんとしてでも見つけ出して、抹殺しようという思いである。
もしそんな王が生まれたら、それを担ぎ出して民衆が騒ぎ始めたら、自分の地位が脅かされる。生き残るために何としても排除しなければならない。自分の持てるものを守ろうとする者の不安である。権力や財産や地位を持つ人間に不安はないか。そんなことはない。権力を持ち、お金を持ち、地位を得ている人間ほど多くの不安を抱えて生きている。だから怯え弾圧する。
一方、三人の占星術の学者はメシア(救い主)を見出して、誕生した幼子イエスに出会った時、何をしたか。意外なことだった。彼らは持ってきた黄金、乳香、没薬を捧げた。「宝の箱を開けて」と記されている。彼らの宝物である。それを捧げて喜んで帰って行いったのである。
一方にお金や地位、権力を握りしめている人間がいる。持っている物を失わないために防御する。身構え、戦い、排除する。彼らはひと時も安心できない。絶えず不安に脅かされている。他方に、自分たちの宝物を携え、それを救い主に捧げて、手ぶらになって喜んで帰って行く人々がいる。人間の深い安らぎ、喜び、それは自らの持てる物を捧げるべき方に捧げるということの中にあるということを、聖書は言っているのである。
三人の占星術の学者は、どうして自分たちの大切な宝物を幼子イエスに捧げたのか。聖書は「彼らはひれ伏して幼子を拝み」と記している。この幼子が神から自分たちに遣わされた救い主、メシアであると信じたからである。マタイ福音書はこの救い主のことを「インマヌエル、神は我々と共におられる」と記している。救い主が主の宮殿や屋敷に生まれず、ありふれた貧しい家に、平凡な田舎娘マリアから生まれた、それが学者たちの発見だった。神は私たちと共におられる。私たち貧しい者たちと、私たち遠く疎外された者たちと共におられる。だから宝物を捧げたのである。
人は誰も宝物を持っている。握りしめている。これがないと生きていけない。そう思いながら。しかし、それ以上に素晴らしい朽ちない本当の宝物が与えられた。それが、神は私たちと共におられる、と言われる救い主イエスである。この弱い私たちと共に救い主はいて下さる。この罪人である私たちと共に神はいて下さる、これが私たちの本当の宝物、その宝物が私たちに与えられたのがクリスマス、イエスの誕生。クリスマスの喜びはそこにある。神は選ばれた誰かの救い主ではない。貧しい罪人の救い主である。だから、心から感謝して救い主の誕生をお祝いしよう。