大勢の徴税人や罪人たちが主イエスや弟子たちと一緒に食事をしているのを見て、ファリサイ派の人たちが主イエスを非難した。この非難には理由があった。徴税人はこの時代、人々から嫌われ、罪人扱いされていたからである。理由は、彼らユダヤ民族を支配していたローマ帝国のために税を取り立てるという下請けの仕事をしていたから。おまけに、彼らは税金を不正に集めていた。それは律法に反することだった。いずれにせよ、彼らは神との関係を真剣なものとは考えていなかった。だから律法も本気で守ろうとは思っていないと見られていた。そういう人々と食卓を共にすることは大変危険なことであった。彼らの生活に巻き込まれれば、自分も神から離れ、神を忘れ、神の国と無関係の者になってしまう恐れがあったから。朱に染まれば赤くなる、というわけである。
それに対して、主イエスは答えられた。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である」「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。主イエスはファリサイ派の人々に皮肉を込めて、「丈夫な人」とか「正しい人」とか言ったのではない。ファリサイ派の人々が「丈夫な人」であり、「正しい人」であることを主イエスは認めている。一方、徴税人たちは、ファリサイ派の人々が言うように、彼らの生活には重大な欠陥があったし、罪人呼ばわりされても仕方ない生活ぶりだった。
しかし主イエスは自分が来たのは、医者が来たのと同じだと言われた。医者はけがや病気の人がいればどこにでも行く。そして主イエスは、預言者ホセアが伝えた神の言葉によってご自分を説明された。神はいけにえでなく、「憐れみを求める」とホセア書6章6節ある。主イエスはご自分を神が求めたその憐れみと結び付け、さらに医者と結び付けられた。つまり、主イエスは私たちの医者なのである。神が求める憐れみを行う医者。収税所に座っていたマタイを召したのも、罪人を招いて一緒に食事をしたのも、神からの医者である主イエスの癒しの行為であり、憐みによる治療だったのである。マタイは収税所に座っていた。それは主イエスの目には医者を必要とする病人の姿だった。
今朝のみ言葉の中心は、主イエスの招きにある。「私に従いなさい」と主イエスは言われた。それが主イエスの癒しの行為だったのである。ということはそこに主イエスの診断があり、それに基づく処方箋がそれだったということである。そして罪人を招いて一緒に食事をする。それも主イエスの憐みに満ちた処方箋である。そこから新しい世界が始まる。主イエスの交わりに入れられた新しい世界である。他のあらゆる生活関係がほどけて、主イエスとの関係が入れ替わる。
「私に従いなさい」と言われた主イエスは、罪人と一緒に食事をされる。本当の名医である主イエスは、患者がどんな難病の病人であってもそれを放置されない。一緒に食べよう。共に生きようと招かれる。主イエスは「神我らと共に」であり、共におられる神。そこに主の憐みと赦しがあり、癒しが起こる。徴税人たちが実際は善良な人々であったということはない。しかし主の招きを受けて、彼らは皆、主イエスのものとされ、主にあって善良な人々へと変えられたのではないだろうか。それが十二弟子のひとりマタイであり、あるいはルカ福音書が伝えるザアカイである。ファリサイ派の人々の目には希望のない徴税人や罪人だったが、その人々が主イエスの招きに会えば、神の救いに入れられる。神との関係に入れられる。神の支配、神の愛の中に入れられる。そして、キリストと共なる人生に生きる人々を生み出す。それは徴税人マタイが持っていた彼特有の資質によってそうなったのではない。主イエスの招きそのものがもたらす奇跡である。主イエスの憐みが、それに応えて立つ人を起こし、主にあって有為の善人に作り変えるのである。主イエスの憐みが奇跡を超すのである。
「私に従いなさい」。これが私たちの医者である主イエスの私たちに対する今朝の主の憐みによる診断と処方箋である。私たちの病にはこれが必要。疲労し、疲れて座っている私たち、あるいは病んで床についている私たちが、あるいは人生を終わろうとしているときに、「私に従いなさい」と主は招いてくださる。主イエスは私たちのあらゆる状態をご存じであり、私たちに最良の処方箋をくださる。「私に従いなさい」。だから私たちも主についていくことができる。「彼は立ち上がってイエスに従った」とあるように、立ち上がることができるのである。主についていくことで、新しくされ、新しい人生を生きることができるのである。主の召しに応えて、立ち上がって、新しい人生を歩んでいこう。