23篇は、何千年もの間、貧しさ、不安、あるいは戸惑いや行き詰まりの中にあった人たちに、大きな力を持って臨み、励ましてきた。それはこの歌が、乏しい中で主に養われ、渇いているときに憩いのみぎわにともなわれた経験を通して「主がそれをなしてくださった」と告白しているからである。そしてこれが私たちの励みとなり、希望となっていき、信仰の立ち所なのであることを教えてくれる。
羊飼いである主は私に青草を豊かに与え、命の水に導かれる。穏やかで何不自由ない営みが繰り広げられているかのような光景である。しかしながら、生きていることが平穏無事に守られている以上に、人は生きるための命をどのように養われているかに気付かねばならない。「主はわたしを……」「あなたがわたしを……」「あなたはわたしに……」というように、この詩人は告白している。この告白は、生きるための命を養ってくださるのは、羊飼いであるお方、主であることを私たちに気づかしてくれる。
現実の羊飼いがどれほど過酷な職業であるかはヤコブの姿によく表れるところである。「わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした」(創世記31:38以下)。主イエスも言われた。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。激しいまでの過酷な業を伴うのが羊飼いであり、ついには一匹のために命を捨てるのが羊飼いであるなら、私たちの命のためにどれほどの代償が払われているかをあらためて見つめ直してよいのではないだろうか。命の育みのためには、目に見えないところで羊飼いとしての主なるお方の働きがあることを覚えねばならない。
私たちは信仰生活の中で、ともすると無気力さに陥ることがある。礼拝に出ても単に守るべきものとして出ているだけで、そこには何の喜びも力も感じない。また、どんなに聖書のことを知っていても、知っていることからは本当の信仰のメッセージ、力は湧いてこない。
信仰は発見。信仰は気づき。信仰は与えられるもの。信仰は出会い。出会って、そこで、「主はわたしに……」と言って告白し、そして神に望みを置く。そこに立つことが大事。そういう意味で主に出会った人々が、何千年もの間、この詩篇を読むたびに、心の中でアーメン、アーメンと唱えながら、この詩篇を歌い続けたということは、なんとすばらしいことだろうか。
5節にあるように、私たちは「主の食卓」に招かれている。そして主はいつもあふれるばかりの恵みと慈しみを与えてくださっている。いや、追いかけてまで、私たちに恵みと慈しみを与えてくださる。これにまさる喜びはない。今朝も主は私たちに呼びかけておられる。招いておられる。その主に祈りをもって応えていっこう。