私たちは、ふと思いがけない時につらく悲しい、そして悔しい経験を思い出すことがある。職場の誰か、家族の誰か、学校の誰か、それらの人間関係で経験した激しい痛みや苦しみ、悲しみを思い出し、暗く、憂鬱で、ときにはイライラし、腹が立ったりすることがしばしばある。
そのように「赦すことのできない」苦々しい感情を引きずったまま、時を過ごし、人生の時を過ごしている人が少なからずおられる。誰かのことを赦すことのできない人間関係は、私たちの生活を時に非常に苦しいものにしていく。
幼いころから親に傷つけられて、親のことをずっと赦せない人がいる。その赦せない思いが、やがて自分が親になったときに、自分の親にされたと同じように、自分の子どもにしてしまうということもこともしばしば聞く。赦すことのできない思いは、赦せない罪の連鎖を生み出し、その罪の鎖を、自分の周りの関係にも広げていってしまうのである。
自分を傷つけた人を「赦せない」と思うのは人間の自然な感情である。でも赦さない思いは、人をその地点にがんじがらめにしてその人自身を傷つけ続ける。相手は赦されなくても何の害も受けないが、私たちの心の中では栗のイガがゴロゴロと転がり続け、時折それを握りしめて血を流すことになる。
しかし、この主の祈りは私たちにこう語る。「私たちも私たちに罪を犯してきた人を赦しますから、私たちの罪をお赦しください」。これはどういう意味だろうか。何かの取り引きのように見えるが、そうではない。私たちが、主の祈りに従って、私たちに罪を犯した誰かのことを赦そうとしたとき、そう簡単に赦せない自分に必ず出会う。だから私たちは、まず「赦せない」自分の罪を正直に認めたいと思う。そして赦せない自分を、神さまの前に差し出していくこと。このことから、この主の祈りは始まっていくのではないか。
主の祈りが赦しを祈り始める時、急に祈りに生々しさが加わる。ある人が言いった。「本当に赦されたという経験がないと、ゆるすことはできないものだ」。なぜなら、私たち人間の赦しには限界があるからだ。私たちは、「もういいよ。赦したよ」と言いながら、本当のところは、その人を赦していないことがある。そして、そのことをだれよりも自分が知っている。
私たちが誰かを赦そうとしたとき、赦せない自分に出会う。その時、真の赦しは、神の赦し以外にないことを知る。十字架の赦しを受け取らない限り、この赦しの中に生きない限り、私たちは本当の意味で赦しを知ることはできない。今日、人を赦すことができずにもがき続けている私たちの限界の前に、神からの本当の赦しをもって、あなたを赦そうとする神の愛が、私たちの前に差し出されている。
主イエスの赦しは、十字架の上でなされた。主イエスは自分を殺そうとする者たちを前にして、祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」。こんな祈りをだれができるだろうか。この赦しを前にした時、今までの自分の赦しがどれほど小さく、本当の赦しにはほど遠いかを知る。そして、いまだに赦せない自分自身の罪深さをも知らされることとなる。
この無条件の祈りが、私たちのために先立って祈られている。自分で自分をどうすることもできない私たちのために、今も祈られている主イエスの祈りである。この主イエスの祈りを聞きながら、私たちは赦され安心して過ごす。
さらに、ここで祈られているのは「彼ら」と複数形。主イエスを十字架につけるような「彼ら」という、私たちの赦せない人間関係のために祈ってくださっている。この祈りがあるからこそ、私たちは祈ることができるのである。「私たちは赦します」「わたしたちを赦してください」と。いつの日か、いや明日にも、あの人と赦し合える人間関係を築くことができますように。