今日の聖書のみ言葉は、今までどれほど多くの人を生かし、励まし、慰めてきたことだろうか。このみ言葉になぜそれほどの力があるのか。まず、このみ言葉を丁寧に読んでみると、28節は「招き」と「約束」から成っていることがわかる。「だれでもわたしのもとに来なさい」と主イエスが招いておられる。そして「休ませてあげよう」と約束されている。
さて最初の招きだが、「疲れた人」と「重荷を負っている人」は「だれでも」、すなわちすべての人が招かれている。徳川家康は「人の一生は、重い荷を負うて、遠き道を行くがごとし」という言葉を残している。また、女流作家で「放浪記」で有名な林芙美子は詩の一節に「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と詠っている。それでも、自分の人生に重荷なんか感じないという方もおられるかもしれないが感じないのは今だけで、まだ疲れていないからにすぎない。こんなことわざがある。「最後の藁一本が、ラクダの背骨を折る」。ギリギリまで踏ん張って、ある日突然に倒れる。燃え尽きてしまって、立ち上がれなくなってしまうという話はよく聞く。燃え尽き症候群。家康は人生は長い旅だという。ということは、そのうちに必ず疲れてくる。今疲れていない人も、単に時間の問題にすぎない。そう考えると、イエスの招きはみんなに当てはまる。すでに当てはまっている人と、将来当てはまる人、のどちらかだから。みんな招かれていることになる。
では、この招きの内容について考えてみよう。疲れた人を休ませるぐらい、お安い御用だ、と思うだろう。公園のベンチだって果たせる務めであろう。それは、足の疲れならベンチで十分。全身お疲れだと、温泉やマッサージなどがいいかもしれない。だが、心の疲れ、魂の疲れは、どうしたらいいのか。生きるのに疲れたと感じるほどのストレスの重圧に、心身ともへとへとになった人を休ませてくれるのはなんだろう。人生の重荷をもはや背負い続けることができないほど疲れた人を休ませるものは、温泉やマッサージぐらいではとても間に合わない。
「休ませてあげます」とは、ただたんにノンビリさせてあげるぐらいの内容ではない。体の疲れはノンビリすればとれるかもしれないが、心の疲れは、そもそも人間をノンビリさせないもので、いくら休ませても、そういうときは、ますます心の疲れは悪化する。忙しく体を動かしている方が、まだしも気が紛れていいということもある。でもそれで解決するわけではない。
主イエスは心の疲れの、その根本原因を処置して取り除き、心身ともリフレッシュしてくださる。人生に疲れ、生きるのに疲れたあなたに、真の休息を与え、その結果、創造的に生きる力をもたらし、実り豊かな人生を与えてくださる、その休息を「わたし」が与えると約束される。
その約束は空手形ではない。では、どのようにして……。28節のみ言葉の後に、29節、30節「わたしの軛を負い、私に学びなさい。……わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とある。私たちは、うっかりすると救い主のところへ行けば、辛いことや悲しいことはすっかりなくなってしまうと単純に受け止めがちである。しかし、主イエスは、信仰さえあれば、幸福と健康を手にすることができると単純に考えてはおいでにならない。主イエスは言われる。あなたの軛は、実は私の軛なのだと。背中の軛が主イエスの軛と成り代わっているので、背負い得る者となっている。そこになおもって生きる勇気の源泉を発見するのである。
ルターは、キリストを信じる時、喜ばしい交換が起こると言う。キリストのものが私のものとなり、私のものをキリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがあるというのである。その結果、私たちは疲労困憊の最中にあろうと、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに生きている自分の姿を見るのである。私の重荷を主イエスに預ける。そして、主イエスの軛を担う。それは主イエスにすべてをゆだねて、主イエスに従って歩むということ。その時重荷は重荷でなくなり、苦しみは苦しみでなくなるのである。いやそれ以上に生きる希望、勇気、力、慰めが与えられるのである。主イエスのもとに行こう。