「一匹の羊を捜し求めて」 ルカによる福音書15章1-7節

イエスさまの周りには、徴税人や罪人たちがいつも集まっていた。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、その様子をいぶかしげに眺めては「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を鳴らし続けていた(1-2節)。彼らが「罪人たち」と呼んでいる人たちに対する受け止め方が、ファリサイ派の人々や律法学者たちとイエスさまでは、まったく異なっていた。彼らは「罪人たち」と十把一絡げにして一線を画し、決して近づこうとはしなかった。それに対してイエスさまは、一人ひとりに目を注ぎ、自ら近づいて行かれた。
 
 そのイエスさまの眼差しに特別な光を見た徴税人や罪人たちは、引き付けられるように近寄ってきた。その眼差しの奥底に生きているイエスさまの確固たる救いの意志をこのたとえは如実に語っている。
 
 ここでイエスさまは、百匹の羊を持っている羊飼いがそのうちの一匹を見失ってしまったら、残りの99匹を野原に残して(おそらくは他の羊飼いの仲間たちに託して)「見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(4節)と言われる。これは、まともな羊飼いなら必ずそうするに違いないという確認である。
 
 見失われた羊の問題は何だろうか。それは、帰る道を知らないこと。自分が本来あるべき羊飼いの側に、自力で帰ることができない。そのように罪は人が本来あるべき場所から迷い出た結果である。そして、その罪の現実が帰路を塞ぎ、見えなくしているのである。
 
 神さまは「御自分にかたどって人を創造され」た(創世記1:27)。かけがえのない交わりの相手としてお造りになった。その神さまとの生きた、何ものにも阻害されない信頼の交わりの中にある時、私たちは本来の意味で生きている。人があるべき場所がそこにある。
 
 しかし、人はその神さまに背を向け、御前から迷い出た。真の交わりの相手を失った当然の結果として、一切の中心に自分を据えて生きるほかなくなった。エゴの根がそこにある。それがどれほどの罪を生み出しているか、エゴに浸りきっている人間には自覚できない。身体が自分のものであるにもかかわらず、自分の目だけではその全体を見ることは決してできないように。
 
 しかし、聖書という鏡は、その私の全体を如実に映し出す。聖書を読んでいると、これは自分のことではないかと裸にされる経験をしばしばするのは、私が自覚していない罪人の自分を、聖書が知っているからである
 
 罪は観念ではない。事実だ。打ちたてのコンクリートにつけてしまった足跡は消すことができないように、罪の足跡は消すことの出来ない事実となって残っている。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)というパウロの痛切な言葉は、私たちの心に宿る、言葉にならない叫びを代弁している。
 
 その迷い出てただ鳴くほかになすすべがない一匹の羊を捜して、羊飼いが来るとイエスさまは言われる。そしてすでに来ている。イエス様ご自身が、その羊飼いである。
 
 さて、最後にイエスさまはこう言われた。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。「悔い改める」とは原語のギリシア語では「向き直る」という言葉。私たちがすべきことはただ一つ、この私を捜し求めてきてくださったまことの羊飼いに、顔を向けること。自分をのぞき込み、罪を数え、うなだれている私に、「そのあなたの現実の一切を私が担う。私があなたをあるべき元の場所に連れ帰ってあげよう」と言って下さる救い主に、全存在をもって向き直ることである。
 
 そうして救い主に担がれて帰ってくるあなたを、神さまはどれほどの喜びをもって迎え入れてくださることだろう。この救いを実行に移すために、かけがえのない独り子の命を捨てることをいとわなかった、その犠牲のこの上ない大きさが、あなたを迎え入れる神さまの喜びの途方もない大きさを表している。
 
 あの最初のクリスマスの夜、地に這いつくばるようにして生きていた野宿の羊飼いに、天の声は言った。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生れになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)。その「あなたがた」の中に、あなたがいる。そして私がいる。私たちの背負っている現実の一切を、丸ごと背負って連れ帰ってくださることの出来るただ一人のお方が、今日も、あなたの前に立っておられる。