「悔い改め」はキリスト教の一大テーマであるが、「悔いる」というと、日本人にはどうしても後ろ向きの心がつきまとう。くよくよと「悔やむ」ことになりがちで、悔いたり、悔やんだりということは、また自分を責め、嫌悪することにもなる。では、聖書のいう、「本当の悔い改め」とはどういうあり方をいうのか。
今朝の聖書の箇所は、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町々が主の「奇跡が行われた(力ある業がなされた)」(20節)にもかかわらず、悔い改めなかったので叱り始められた、とある。「奇跡(力ある業)」は主イエスの働きで、11章5節によれば、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされた」ということである。
そして、その根本には、キリストの存在がある。ヨハネの手紙一の1章7-10節で言えば、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められる」(7節)というのである。悔い改めとは、このキリストを拒否しないこと。「ありがとう」ということである。キリストの力ある恵みの業がなされている。恵みの先行である。それが悔い改めの根拠である。悔い改めは主による恵みへの応答である。悔い改めは、謝罪ではない、感謝である。申し訳ありませんでしたということではなく、ありがとうということである。神が「どうぞ」といって差し出してくださる恵みに、「ありがとう」といって応えることである。
だから、悔い改めるということは、悔やむのとは違う。いつまでも自分の状況を悔しがったり、何か運命を恨んだり、自分を恨む、あるいは自分を嫌悪し、傷つけることではない。そうではなく、すでに新しくされて生きているのである。そこで、「悔い改め」には、二つの面があると言われる。
ハイデルベルク信仰問答に「人間のまことの悔い改めはいくつのことから成り立っていますか」という問いがある。その答えは、「二つからです。古い人が死滅することと、新しい人が復活することです」。古い人が死滅することとは、罪から離れ、自己中心の自分から離れること。そして新しい人が復活するとは、神に向きを変えた人生、神中心へと方向を転じた新しい人生があるということ。悔い改めは自己から神の方へ向き直ること。そこではすでに神の恵みの支配の下に生きることを始め、感謝の人生を始めている。それがあるので、自己中心から離れることができる。
古い人が死滅するというのは、自分がいなくなることではない。悔い改めは、新しい自己の確立でもある。悔い改めによって自分がいなくなるのではない。いよいよ自分らしい人生がはっきりしてくるのである。それには自分を欺かないこと。欺くというのは、自分に罪がない、罪を犯したことがないと言い張ることである。新しい生き方の中では、自分の罪の事実を欺く必要はない。「自分を欺かない」と言うことは、ヨハネの手紙一によれば、自分の罪を言い表わすこと。
神は、私たちのために「罪の赦し」が必要とすでに判断して下さっており、そして、そのために「御子イエスの血」が必要だとされた。その中に新しい私たちの存在の根拠が与えられている。あの「力ある業」「奇跡」は、主イエスによる罪の赦しと魂の癒しの奇跡だが、それは結局は、主イエスご自身の生命を賭けたその血による罪の赦しであったのである。主ご自身が打たれたその傷による魂の癒しであったのである。御子イエスの十字架の血による赦しと癒しが必要である。そのように神は判断され、決意され、実行してくださった。そのようにして、神は私たちの新しい人生を備え、守って下さっているのである。その神を偽りものとしないこと、それがまた自分を欺かないことでもある。
自分の罪を言い表すのは、真実の自己の確立を与えられているからである。御子イエスの十字架の血の中に、すでに、自分の確かな存在の根拠を与えられているからである。罪がないと言い張ることも、また悔やんで立ち直らないことも、悔い改めではない。悔い改めは、罪を言い表して、新しく生きること、否むしろ、新しい生き方の中で罪を言い表していくことである。