何かが生まれ成立していくには、そこに至るまでの長い経緯があるもの。使徒言行録16章6-40節には、フィリピの教会が生まれ成立していく不思議なプロセスが書かれている。それはパウロが一つの幻を見たことから始まる。海を隔て遠い地にいる一人のマケドニア人が「わたしたちを助けてください」と懇願する幻であった。
当時、学問的文化的な先進地であったヨーロッパにも、十字架において示された神の愛の福音によってでしか、救われることができず、魂の底から救いを切に求め、救いのSOSを発する人たちがいたのだ。そこでパウロたちはマケドニアに渡り、フィリピに行って宣教した。そこに信徒たちの群れが生まれた。そのフィリピの人たちにあてた手紙の冒頭が今朝の聖書箇所である。
その1章3-11節はパウロの感謝と祈りである。3節に「感謝する」とある。それは信徒たちが「福音にあずかっている」(5節)からである。世には多くの感謝すべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかった。継続は力なり、と言われるが、なんでも一つのことを続けることは大変なこと。続けるには大きなエネルギーが必要である。
「福音にあずかっている」ということも、決して容易なことではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪ゆるされ、滅びから救われることである。それは「恵みにあずかる」(7節)ことに他ならない。あるいは「苦しみにあずかる」とも言われる(3:10,4:14)。
この「あずかる」と訳されている「コイノーニア」は普通「交わり」といわれる言葉。「交わり」はキリスト教の中心、生命だが、人と人との横の交わりよりも、神と人との縦の交わりが強調され、福音や恵み、さらに「霊の交わり」(2:1直訳)があるかどうかがキーポイントなのである。
私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえある。私たちはいつ信仰を失っても不思議ではないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題で満ちている。このような現実の中で、福音にあずかるということは、人間の力やわざではまったく不可能。ただ祈りによって、むしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6節)、まさに十字架のエネルギーによってのみ可能となる。だからパウロは「わたしの神に感謝する」と言い、感謝が泉のようにわき上がるのである。
同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、執り成し祈ること。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、ひとのために祈るのである。教会やキリスト者の背後には、祈る人がいるのである。
三浦綾子さんは「人々に祈っていただきたいという、人の信仰を当てにしているのが、私の信仰である」と書いておられる。私のために祈ってくれる人がいて、そのような執り成しの祈りによって、私の信仰が支えられていると言うのである。しかもそれだけではなく聖書には、霊による執り成しがあり、イエスによる執り成しがあるのだと書かれている(ローマ8:26-27,34)。
私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されているというのである。四方八方から、祈りによって包み囲まれているのだ。実際、多くの問題や危機に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見するとき、私たちに生きる勇気が生まれる。