先週は、最初の人間アダムとエバが神から食べてはいけないと言われた木の実を食べ、神との約束を破ったとき、神はアダムに「あなたはどこにいるのか」(創世記三・九)と問いかけられたということを話した。主なる神と人との出会いは、この神の問いから始まったのだ。それは、神に背き、身を隠す人間への呼びかけであった。
その呼びかけは、神は罪を犯した、あるがままの姿で立つ人間と向き合い、人間の説明や弁解を無用とし、責任ある応答を求められる方であることを私たちに教える。さらに神は人の罪を受け止めながら、責任ある応答する人を愛され、祝福へと導かれる方でもあることを学んだ。
主イエスも「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と、私たちを祝福の道のパートナーとして招いておられる。招きの言葉でもある。
10年以上前に次のような記事を「キリスト新聞」で読んだ。それは韓国釜山の四人の牧師たちが来日し、同胞たちの苦難の現場をたどった、という小さな記事。その現場とは、94年前の関東大震災で、日本の軍隊・警察・住民らによって、朝鮮人6千人以上が理由もなく虐殺された現場である。そこで一人の牧師が「関東大震災後、日本の教会ではどんな説教がなされたか。また震災によって教会はどう変わったか」と質問されて、その場に居合わせた者は明快に即答できず、日本のキリスト者として不明を恥じたとあった。
この記事を読んで以来、私は、これは他人事ではない。今も問われていると思わされている。戦争や、紛争ばかりではない。阪神淡路大震災、東日本大震災、福島第一原発事故、熊本地震などなどにおいても、私たちは「あなたはどこにいるのか」と問われ続けている。
日本の政府は、いつでも戦争が出来る状態をつくり出そうと躍起になっている。その中にあっての主の招きである。招きに応えようとすれば、批判や困難や誘惑が迫ってくることだろう。やがて、招きに応えて従うのが辛くなってくると、耳障りのよい御言葉だけを拾って読もうとする。「従う」という恵みを「律法主義だ」「~ねばならない信仰だ」と、批判的な解釈をする人も出てくるだろう。しかし「従う」というのは、決して楽なことや喜びの中で実現するのではない。痛みを伴うことも苦しみを伴うことも、犠牲を強いられるときさえある。しかし、その苦しみのところに、主ご自身が一緒にいて下さる。私たちの苦しみや悲しみを誰よりも分かって下さる十字架の主イエスが片時も離れずおられるのである。イザヤ書41章10節にあるように「恐れてはならない。私はあなたと共にいる。驚いてはならない。私はあなたの神である。私はあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたを支える」と、励まして下さるのである。
「従う」というのは盲信、盲従ではない。よく分からないけど、神が言うから従うではない。また、従っていれば楽だとか得をするからという損得勘定でもない。先週の夜の祈祷会で創世記6章のノアの箱舟のところを学んだ。「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(6:9)とあり、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」(6:22)とある。ノアは神が言われるから、何も分からないままに行ったのではない。ノアは神がどういう方であるかよく分かっていた。だから神に信頼をおき、神を礼拝し、神と共に歩んでいたのである。
神の平和(シャローム)を祈り求め、行動する群れでありたいと思う。「あなたはどこにいるのか」との、主の呼びかけに誠実に応えるところから、平和をつくり出す祈りや行動が生まれる。その時、主イエスは、私たちを祝福しながら共に歩んで下るのである。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。もう一度、この主イエスの御言葉に耳傾けよう。