今世界で最も評判の高い説教者バーバラ・B・テイラー氏(米国聖公会の女性司祭)が説教集の中で「神を信じることで何が難しいかと言えば、それを人に話してみようとすることです」と言っています(『天の国の種』キリスト新聞社 2014年)。確かにその難しさを日々感じる者です。
たとえば、「なぜ日曜日に礼拝するの?」「礼拝ってな~に?」と尋ねられたら、何と答えるでしょうか。多分あれこれ説明するでしょうが、どうもしっくりきません。そこで最後の決め台詞、「百聞は一見に如かず。とにかく一度礼拝にいらっしゃい」。これもいい手ではありますが。
さて、今月から『聖書教育』は「創世記」に入りました。さっそく「安息日」のことが出てきます。「安息と休息とは違うの?」と聞かれたら、何と答えましょうか。「休息は体を休めること、安息は、心、魂といった内面に平安を得ること」と言えばいいでしょうか。
聖書の世界は安息日を大切に守ってきています。それは十戒の中の四番目に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と定められているからです(出エジプト20:8)。もともと安息日は二つの起源があります。①神は天地を創造し七日目に休まれた(創世記2章)。②出エジプトの出来事(申命記5章)の二つです。神に造られたことを喜ぶ日、救われたことを感謝する日、と言ってもいいでしょう。
また「安息」は「止める」という意味もあります。止めるのは労働だけではありません。「種まき、刈り入れ、売買、点火、性行為、食事の用意、病気のいやし、900m以上の歩行」と決まっていました。しかし、働きをやめ、業を止め神の祝福を静かに想う日が、逆に人を縛ってしまうようになってきました。目的を忘れ、方法を目的にしてしまったからです。本末転倒ですね。
だから、主イエスは「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われたのです(マルコ2:27)。働きを中断し、いったんそこから離れ、自己を改めて見つめ直し、神に生かされている恵みを受け取り直し、祝福をいただき、再生(リフレッシュ)する恵みの時です。大切にしたい。