このたとえの眼目は、義とされる者は誰か、ということ。義とされるとは、神に「よし」とされ、神に受け入れられること。神が私たちとの間に、欠けや不安のまったくない十全な交わりを結んでくださり、共に生きてくださることである。
ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはほかの人たちのように、……でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」とあるように、人と比べて見下している傲慢さに問題がある。それは、祈りながら、彼の目は、神さまにではなく、人に向いていることにある。見比べて自分を誇っている。そこに、生活態度としては申し分のないこの人の祈りに隠された偽善が見え隠れしている。
もう一人の登場人物、徴税人の態度は正反対。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(13節)。人は、無意識の内に過ちの言い訳を探して生きている。そしてその道はいつでも、いくらでもある。自分の生きている現実を誤りなく、ごまかしなく見ることは本当に難しい。人には厳しく、自分には甘い、それが人間の本性。 しかし、この徴税人は「罪人のわたし」と告白している。それは、神の前に出てはじめて明らかになる生の現実である。
では、神の前に出るとはどういうことだろうか。それは神はどのように見ておられるか考えてみることではないか。神の言葉である聖書に照らして自分を返り見ることである。聖書のみ言葉をどう読むか、どのように聞くかでもある。
ファリサイ派の人の顔はおそらく堂々と天に向けられていただろうが、心は神にではなく、人に向いている。しかし、顔を天に上げようともせず、うつむいて胸を打つばかりの徴税人の心は、すべてを知っておられる神の前に一人立っている。もし、ファリサイ派の人がこの徴税人と同じように神のみ前に立っていたら、人を見下して自分を誇る偽善が暴かれ、徴税人と同じ告白をせざるを得なかっただろう。
そして、イエスは言われた。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。聞いていた人々は、この言葉に言いようのない衝撃を受けたと思う。だれもがファリサイ派の人が義とされ、徴税人は捨てられると思っていた。恐らく徴税人自身もそうだろう。このイエスの言葉は、その世間的常識を根底からひっくり返す、驚くべき宣言である。
イエスに「義とされて家に帰ったのは」と言われた徴税人は、その後、神と共に、それまでの生活を清算して新しく出直したことだろう。彼は、目の前に開かれた、まだ一度も歩いたことのないこの新しい道に踏み出していったことだろう。
イエスは、このたとえを通して、この出発点にすべての罪人を招いておられる。罪の現実を認め、御前に告白する者を丸ごと受け止め、義としてくださる神の前に私たちを招いておられる。そこから、神が私たちの全存在を担ってともに歩いてくださる神との新しい生活が始まるのである。義に生きる生活。