12年間も長血を患っていた女性は、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」(27節)。そこに彼女の信仰が表現されている。この信仰によって、彼女は主の恵みの力にあずかり、癒された。そして主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。しかし、この女性を癒し、救ったのは、彼女自身の力ではなく、「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」(30節)とある通り、主イエスの内にある癒す力であった。
彼女は、主イエスの癒しの力をその身に感じ取っただけである(29節)。主の力が感じ取られ、救いが「私のもの」となったのである。それが彼女の信仰である。そのような信仰とは、何の資格も能力もないのに、にもかかわらず、恵みの力を受け取ること、癒しの力に捉えられることによる。だから信仰は、自分には何の資格もないという困難を越えていく。自分はふさわしくない、自分には価値がない、しかしその価値なき状態にもかかわらず、それを超えて生かされること、赦され、癒されたことを受け取ることによる信仰である。そしてそれは聖霊の導きによる。
しかしなぜ、彼女はそうできたのか。それは、「『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである」(28節)と記されている。しかし重大なことは、いずれにせよ、彼女があらゆる「迷い」や「ためらい」を越え、あるいは「妨害」を越えて、「キリストの服(衣)に触れた」ということである。その理由は一つ。彼女はいかなる障害にでもなく、主イエスご自身に捉えられていたということである。言い方を変えれば、主は、その背中で赦し、招いてくださっていたのである。神の愛の招きが、その背にはっきりと表れていた。だから彼女は主に触れることが出来た。それが聖霊の導きによる信仰である。彼女は病に捉えられていた。しかしそれ以上に主イエスに捉えられたのである。そして信仰によって癒しを受け取ったのである。
信仰とは、主の恵み、主の愛にどんな時にも、何にもまして捉えられることである。そしてその招き、呼びかけにどんな時にも応えることである。恵みに捉えられていることによって、あらゆる障害、妨害を越え、その恵みの方、主イエス・キリストに触れていくことである。それによって病から自由になることである。癒しを受け取ることである。それが信仰である。そしてそこから命が与えられる。そして義が、また健やかさが与えられる。
信仰は誰にとっても、常に、障害を越えて行かなければならないものである。信仰生活で、試練を受けない生活はない。しかし越えることの出来ない障害は何一つない。主イエス・キリストの愛に捉えられ、癒しを受け取る信仰にとって、越えることのできない障害は、何一つない。主の愛と癒しの力が、あらゆる障害を越えて、私たちを捉え、生かしてくださるからである。