エルサレム市内にある「屋上の間」(1:13)で、弟子たちを含む「百二十人ばかりの人々」(1:15)が集まっているところに、聖霊が降ったのは、「五旬節の日」(2:1)であった。この日は過越の祭りから七週間後、すなわち50日目(ギリシア語で「ペンテコステ」)に行っていた祭りの日。旧約聖書の「小麦の刈り入れの初穂の祭り」(出エジプト23:14-17など)に根拠があるとされ、後にユダヤ教ではこの日をシナイ山において、神から十戒を与えられた記念としている。
その日、「みんなの者が一緒に集まって」いた。これは、「教会として集まる」ことを意味していた。炭火もばらばらではうまく燃えない。「呼び集められ」、心を一つにし、共に祈る時、主は私たちの信仰を燃え立たせてくださる。弟子たちは「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(1:5)という主の約束の言葉を信じ、この日も集まって、一緒に集いを持っていた。彼らが祈っていると、突然風が吹くような音が家いっぱいに響き渡った。こうして、復活のイエスが約束された聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられた。
私たちにとって神の国はすでに来た、五旬節も来た。聖霊はすでに注がれている。そこで私たちの責任があらためて問われる。聖霊が注がれているのに、それを受けていないとすれば、みんなの者が一緒に集まって「約束を信じて待ち望む」ことが欠けているのである。私たちの努力と関係なくすでに五旬節は来た。だから私たちにとっては、一緒に集まって聖霊が注がれるのを待つことが大切なのである。
「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こって」とある。聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からである。このことが示していることは、聖霊が降るとか、聖霊の働きなどは、神ご自身の働きであって、人間的な努力や考えで起こることではないということである。だから、そこに当然、私たち人間の側からすると、戸惑いや驚きが起こるのである。
ルターは次のように言っている。「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためであると主が言われるように十字架の福音が説かれると世の中が騒然となる。もし私たちがキリストの福音を聞いて疑ったり、驚いたりするようなことがあれば、それこそキリストがそこで働いていてくださる証しである。もし私たちがキリストの福音を聞いて、その通りだと思い、何の疑念も残さないなら、私の知恵は働いているかもしれないが、キリストは働いておいでにならない」。神の起こされる出来事に人間が驚くのは当然であって、驚きがないなら福音ではないということである。神の出来事は全て神の側からの働きかけを受けてなされていくことを覚え、主のみ業を祈り求めよう。そして、私たち一人ひとりが聖霊によって、主に用いられるよう祈りに励もう。