「いのちの主を畏れよ」 第一コリント3章5-9節

パウロはコリント教会内の分裂騒ぎに根本的な態度を示す。その一派にパウロ派があったのだから、普通ならうれしいだろうに、彼はそれを否定する。5節の「パウロは何者か」とはどれだけの値打ちがあるのかということ。アポロにしても彼自身も自分の力で伝道したのではなく、ただ神の恵みによるのだ、ということ。しかも、主から与えられた分だけ働かせていただいたに過ぎないのだと説くのである。しかし、なかなかそのことに私たちは気づかない。この神の恵みは、神のために懸命に励み、神の前に自分を低くしていくことによってのみ気づかされていく。それは、6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という信仰の告白へと私たちを導く。

 さらにパウロは7節で「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」と言って、キリストを介して神を中心に置き、神の前では、自分も含め人間、および人間に所属するもの一切が相対化されるべきことを述べている。要するに、自分を絶対化しないということ。それによって、逆に自分のしていることを冷静に見つめることができる。周りも冷静に客観的に見ることができる。

 そうしてはじめて、キリストの前で共に生きる、共に成長していくことの本質が見えてくる。共にかけがいのない神から与えられた「いのち」を生きている。その私たちを成長させてくださるのは「神」。私たちは互いに水をやったり、手入れをするだけ。

 私たちキリスト者が立つべき立ち位置というものは、神が私たちにかけがいのない「いのち」を与え、そして「育ててくださる」「成長させてくださる」、という視点、信仰に立つということ。そして共に生きていこう、共に成長していこう、という姿勢で関係性を大事にしていくということ。言い換えるならば、いのちの主を畏れ、かけがいのないそれぞれに与えられた「いのち」を感謝して大切にする。そして、人それぞれには神から与えられた人生があり、生活があるのだから、その歩みを尊重しつつ、成長させてくださる神に信頼し、期待して共に歩んでいくことである。