信仰は量ではなく質である。「からし種一粒の信仰があればいいのだ」とイエスは言われた。しかし、いつまでたっても信仰の確信に立たない、信仰を得ていないと思っている人は多い。まわりを回って、キリスト教のいいところにふれているかもしれない。けれども、喜びがない、感謝がない。それは、その人が信仰の真実にふれていないからである。神やキリストとの交わりを忘れ、人と人との交わりだけしているからである。神と交わるとは、祈りとみ言葉を受け入れていくことである。そして、いつも謙虚に聖霊によって十字架の恵みにあずかりつつ、「完成を目ざして進」むことが大事である(6:1)。
信仰を完成するというのは、全うするということに通ずる。全うするためには、忍耐こそ唯一のものである。ヘブル人への手紙のテーマは忍耐ということである。この6章後半も、忍耐を激励している。忍耐というのはただ我慢するということではない。必ず来るものを待つということである。福音とは神の国の到来を知らせるものである。その到来と知らせとの間が忍耐である。だから忍耐とは希望と結びついているもので、希望のない忍耐は聖書でいうところの忍耐ではない。
アブラハムがイサクを連れて、モリヤの山に登っていくとき、若者たちを山すそに置き、二人で行く。その時彼は若者たちに「あなたたちは、ここで待っていてくれ。私たちは、いまから山へ行き礼拝して帰って来ます」と言う。「帰って来ます」の主語が複数である。イサクを神にささげたら、帰りは一人のはず。それを「私たちは」とアブラハムが言えたのは、イサクも帰って来られることを信じきっていたからである。だから一人子を献げることができた。どんなにして神が返して下さるかは分らなかった。献げるけれど、愛の神は殺すようなむごいことはなさらない。最善をして下さると信じていたからこそ、彼は従うことができたのである。
聖書の忍耐とは希望を持って待ち望むことであり、み言葉に従って待ち望むことである。それが私たちの信仰生活を全うさせる力であり、完成へと進めるものである。この服従の忍耐を続ける時、私たちは神の国に入ることが許され、神と相対して、「神が人と共に住み、人は神の民となり、……」(黙示録21:3)という世界に生かされるのである。信仰は見えざる神への信仰と未知の将来への確信であるので、その中に当然忍耐が含まれる。そして、約束の成就を受けるのである。真の信仰者は目標を目指して努力することが求められている。