人生を変える出会い 創世記32章23-32節

私たちは人生の中で、色々な人々や出来事に出会う。しかし、ただ人間や人間社会との出会いがあるだけではない。実は、もう一つの出会い、私たちにとって根本的な出会いがあることを今朝の聖書の箇所は教える。

 ヤコブは、父イサクと兄エソウをだまし、長子の特権を奪い取り、長子の祝福を受けた(27:35以下)。ヤコブは兄エソウの激しい恨みから逃れ、遠く外国の地、母の兄ラバンのもとに逃亡した。長子の特権とは、現代風にいえば「遺産問題」「財産問題」。そこでの20年間、ヤコブは知恵をめぐらし、策を弄して、自分の家畜を増やし、財を成した。しかしそこでも疎まれ、ヤコブは逃げるようにして故郷に向かった。しかしそこには兄エソウがいる。あれからすでに20年を経ているが、こじれた人間関係が消えたわけではなく、修復されているわけでもない。それはヤコブの悩みであり、闇の部分であった。ヤコブには真の平安がなかった。ヤコブはそのような問題の只中で、それとは別な「何者か」に襲われた。聖書はこういう「思いがけない出会い」が起きると伝えている。それは神との出会いである。

 ここには二つのことがいわれている。一つは、心悩ませている問題があり、それがどんなに深刻に見えたとしても、実は本当の問題ではないということ。もう一つは、その時もう一つの出会いが起きるという。悩みの出会いは、それがどんなに恐ろしく見えても、結局のところ、遅かれ早かれ失わざるを得ないものを奪うだけであり、それ以外のものは奪えない。それは、時間を奪っても本当の命を奪うことはできず、健康を奪っても本当の平安を奪うことはできない。肉体の命を奪っても魂の救いを奪うことはできない。

 それに対して、本当の問題があるという。それはヤコブにとって兄エソウではなく、神だというのである。なぜなら神と出会わなかったら、救いを知らず、赦されず、魂の平安のないままである。生きる意味も喜びも見出せない。本当に必要なのは、神と出会い、神との和解に生きることである。エソウとの和解はその後のことであるという。

 その神とは祝福を求めるヤコブの必死の格闘に屈して下さる方。神は人間の求めに屈して下さる。求める者に対する神の謙遜、神のへりくだり、それこそ「愛の神」「恵みの神」。ここに聖書が伝える神が「恵みの神」であり、「十字架にかかられる神」であることがはっきり現れている。「悩みのときにわれを呼べ」と言われる神であり、「私の名によって求めよ」と言ってくださる神である。この神と出会い、神との和解の中に生かされていく。それが私たちの人生を変えてくれるのである。