「無力さから祈りへ」  ヨハネの黙示録3章20節

ノルウェーの神学者ハレスビー(1879-1961)は、『祈りの世界』(鍋谷堯爾訳 日本基督教団出版局 1998)の本の中で、祈りは無力な人の最後の逃れ場であると書いている。また、無力な人だけが本当に祈ることが出来るともいう。

 私たちはしばしば無力感に襲われる。神様とか永遠なるものとか聖なるものが、自分にとって遠くて無縁なものに思われことがある。そして、そのような自分に気づく時、これでよいのだろうかと自分に問い、また責めたりする。しかし、心の奥底でそのような自分から解放されたいと望んでいる自分。そのような葛藤の中でどうすることも出来ないでいることがよくある。そして、このような無力さによって落胆するあまり、祈りは唇に凍りついて出てこない。しかし、ここで落胆してはいけない。この無力さこそが、最後の祈りである。この心の底からのうめきこそが、言葉に出したあらゆる祈りにまさって神様の心に届くのである。

 神様は私たちの惨めなうめきや叫びを聞き、無力な人間を助けるために身を低くして近づかれたのである。愛する独り子イエス様を私たちのために遣わされた。そのイエス様が忍耐強く、私たちの心の戸を叩いておられるのである。

 私たちが悩みや悲しみの中で、また絶望した時、無力さのどん底にいる時、神に向かって叫ばずにはおれなくなった時、神様に目を向ける時、その無力さが、イエス様に向かって心の戸をいっぱいに開かせ、すべての悩みや悲しみの中にイエス様を受け入れさせるのである。無力さは祈りの前提である。無力さを通してのみ私たちは心の戸を開き、イエス様を悩みや悲しみの中にお迎えして、すべての恵みと賜物をいただくのである。だから、祈る時、無力さを感じても、思いわずらってはいけない。ましてや、無力さによって祈りが妨げられるようなことは決してあってはならない。「絶えず祈りなさい」。自分の無力さと弱さを受け入れ、自分の無力さを自覚する時、その無力さが祈りへと向かわせる。無力さこそ人間を神に結びつける最も強い絆である。私たちの無力さが私たちを神様と結びつけるのである。