信仰の父アブラムは、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」との主の言葉を聞いたとき、住み慣れたハランの町を出で立った。森有正(フランス文学者)はこのことを「アブラハム自身の内心の深いうながしに応じて自分で出かけた」と著書の中で書いている。そして、「内心のうながし」によって歩みだした歩みの中での経験こそがその人の信仰を形づくっていくという。アブラハムの信仰はまさにそのようにして形づくられた。
彼は主の示されるまま旅に出て、カナンの地を通って、「シケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた」。しかし、そこにはすでに先住民カナン人が住んでいた。戸惑う彼に主はご自身を現し、「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と約束された。しかし、アブラムにとって現実は厳しく、この約束の言葉は受け入れがたいものであった。そこで彼はさらに南へと旅を進めた。もはやこの旅は神の示すものではなく、彼の旅路であった。最初は神の言葉に聞き従って出発したのであるが、現実の厳しさのゆえに、終わりにはおのが道を歩み出す。これは信仰する者が出会う危機ではないかと思う。神の言葉は現実の世界から出たものではなく、神の可能性の上に立ち、神のみ心によって語られるものである。そこに神の言葉を聞く者のつまずきがある。どんなときにも、神のゆえに、神の言葉を何よりも確かなものとして信頼して生きていくところに信仰する者の生き方がある。
信仰の父と呼ばれるアブラムにして、この迷いと失敗があったのである。私たちもしばしばこの誤りを犯しやすい。しかし、アブラムは行く先々で、主のために祭壇を築き主の名を呼んでいる。それは神を礼拝することである。そして、そこには、「主よ、ここでよいのですか。ここがあなたの与えて下さる地なのですか」という問いが含まれていたのではないか。神の促しを聞き取って行こうとするアブラハムの信仰が見て取れる。神に問い、関係を否定しないところで生きるアブラム。
そのようなアブラムを主は離しません。そして、主のみ手はアブラムを離さなかったように、私たちを離したまわない。恵まんとして選びたまいし主のかいなは常に不信の徒を引き寄せ、恵みのみ翼のもとにはぐくみたもう。すべてをしのぐ圧倒的な神の恵み、そのゆえに、何ものも恐れずに、信じることを得させて下さいと祈り求めていくことこそ、私どものつとめである。