神様は模範的な教会を用いられたのではなく、このコリントの教会のような、いわば劣等生のような教会を用いられた。私たち劣った者一人ひとりに対しても同様である。私たちは自己の弱さ、つまらなさに泣くとき、私たちが生きているのではなく、神様に生かされ用いられているのだと信じることが肝要である。私が仮に三つしか出来なくてもよい。神様がお用いになるときには、三も十も結局同じになってしまうからだ。なぜなら、神様は三の者にも十の者にも、無限大をプラスして下さるのだから、答えは同じなのである。だから、自分は三だけしか出来ないことを恥じる必要はない。いや、むしろ三を全力あげて出し尽くしていくところに、神様の働きがあらわれるのである。
この手紙の特徴は「慰めの神」について書かれてあることである。この数節に「慰め」という語が、10回も用いられている。神様の豊かな慰めが、苦闘するパウロの上にいかに満ちあふれていたかがうかがえる。どのような患難にあっても、神様の慰めが満ちあふれていたのだ。そして、神様はパウロに、その受けた同じ慰めをもって他の苦しむ人々を慰める力を与えて下さった。神様の慰めは、その人一人にとどまっているものではなく、その人を通して他にも働きかける。そして、この慰めの浸透しえない患難はないのである。ただし、パウロたちの受けている苦難は、いわば、キリストの苦難にあずかることなのだが、これはまた、ただちに、キリストにある慰めにあずかることでもあった。キリストとの苦難の共同、そして、慰めへの共同参与である。そのように、教会はいわば苦難の共同体であり、慰めの共同体である。
パウロが心血を注いで牧会したコリントの教会は、パウロから背いていた。なんでもない人が反対しても、さほど気にならないが、愛して育てていった者から背かれることは、どうにも許しがたく、つらく悲しいことである。このどこにも慰めを求めることの出来ない孤独の中で、パウロは慰めに満ちた神様を知ったのである。
その神様はいつも私たちのかたわらにいてくだる。神様が共にいて下さることが「神の慰め」でもある。「インマヌエル、アーメン」。