種まく人のたとえ話は、神のみ言葉を人々に説くことによって、人々の心に神の国を築こうとするイエス様の目的が語られている。イエス様の教えの中に、またそれに答える人々の応答の中に存在するものとして、神の国を示している。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)。
このたとえ話では、まずだれもがあてはまる、あまり望ましくない最初の三種類のタイプを示し、その上で、最後に願わしい一つの理想のタイプを示している。それは、私たちにみ言葉を聞いて受けいれる人になりなさい、そして30倍、60倍、100倍の実を結ぶよう努めなさい、と勧めている。そして、そのような豊かな実を結ぶところがまさに神の国なのであるといわれる。
ではイエス様はこのようになりなさいと勧めるためにだけ、このたとえ話を語られたのか。目的を指し示し、かたわらで腕組みして見ているだけなのか。そうではない。イエス様は私たちを救おうとされている、その意思を示しておられる。三番目のたとえと四番目のたとえの間に十字架が隠されている。私たちはこの十字架を見逃してはならない。そこに十字架を見ないとこのたとえ話はただの道徳的なお話、気の利いたお話で終ってしまう。十字架を見ないで、人を見ることになる。そこには神の国はない。
サタンや艱難、迫害、この世の思いわずらい、富の誘惑、その他色々な欲望。これらは、私たちの現実である。私たちの現実がそのようなものであるからこそ、イエス様は十字架の死を選ばれた。神の裁きから逃れようのない私たちに代わって、その滅びの罪を引き受けて下さった。その意味で、厳しい現実を語られることは、イエス様にとって、自らの十字架を指し示す行為だったのではないか。パレスチナの平和な種蒔きの情景を歌ったような、種蒔きの譬え話にも、罪のもとに苦しむ人々に対するイエス様の悲しみと愛があふれている。
もうひとつのメッセージは「収穫は確実である」という約束である。14節に「種を播く人は、神の言葉を播くのである」とある。私たちは種を蒔く。播く時はこの種が芽を出し、成長して、実を結び、収穫できると思うから種を播く。実るわけがないと思って種を播く者はいない。
しかし、現実は確かにサタンや艱難、迫害、この世の思いわずらい、富の誘惑、その他色々な欲望によって実を結ばないことが多い。それにもかかわらずみ言葉は豊かな収穫をもたらすとここで言っている。コロサイの信徒への手紙は、このたとえを思い起こしているかのようにこう言っている。「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(1:6)。
「良い土地」(20節)がどこであるのか、私たちが特定することはできない。人の目には隠されている。われわれの努力の多くは、何の結果も生み出さないように見えるかもしれない。多くの労働が無駄になったように思えるかもしれない。しかし、この譬えはまた我々にこう語っているのではないか。「忍耐せよ、仕事に励め、種をまけ。あとは神にまかせよ。収穫は確かである」と。この譬えの最後に現れた豊かな収穫を約束するみ言葉によってわれわれは励まされ、勇気を与えられるのである。
詩篇126編5~6節。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」