「パンを水の上に投げよ」 コヘレトの言葉11章1-6節

「コヘレトの言葉」には、人生の知恵が語られている。ある神学者は「聖書の知恵は、一種の人生への応援歌である」と言っている。

  1節の謎めいた言葉は、何を意味しているのか。1~6節に繰り返し出てくる「知らない」という人間の知的限界に対する言及に注意を払いたい。「パンを水の上に投げる」とは、どう見ても愚かな、無謀な、無駄な行為といえる。しかし、ここではこの愚かしい、無謀なそして無駄な行為をせよ、と命令形で語られている。そしてこの愚かしい、無謀な、そして無駄な行為が、後になって思いがけない良い結果をもたらすからである、と語られる。考えてみれば、そういう愚かしい、無謀な、そして無駄な行為が必ず、良い結果をもたらすという保証は、実は何処にもない。しかし、ここでは、そういう将来の保証のなさ、不確かさ、不安の中にあるにもかかわらず、「多くの後の日にあなたはそれを得る」と、かくも積極的に人生の肯定が語られている。ここには、「子どものような神聖な肯定」がある。「聖書の知恵は、人生の応援歌である」といったその理由が、この「子どものような神聖な肯定」にあるように思う。それは神にある楽観主義ともいえる。その楽観主義とは、神が創造されたこの広い世界では、愚かしく、無駄で、無謀と思われる行為が、いつの日にか、思いもかけぬ良い結果をもって戻ってくるという豊かさが隠されている。そのような楽観主義である。将来は私たちに隠されていて、私たちはそれを「知る」ことが出来ない。将来は確かに分からない。しかし、分からないからといって何もしないのではなく、分からないという限界に反抗して、チャンス(機会)をつかんで、行動しなさい、と勧める。

  「コヘレトの言葉」の著者は、現実が不条理であればこそ、分からないという限界があるからこそ、将来の保証が見えないからこそ、それらに反抗して無駄、余計、無謀とみえることを試みることを勧める。神が創造された広いこの世界では、愚かしく、無駄で、無謀と思われる行為が、いつの日にか思いもかけぬ良い結果をもって戻ってくる、そのような豊かさが隠されている。この世界には私たちが知っている以上に多くのさまざまな人々が、私たちとの出会いを待っている。み言葉を携えて出ていきましょう。