イエスは「失われたものを尋ねだ」される(10節)。しかし、この物語で、最初に行動するのはザアカイである。イエスがエリコの町に来られることを聞き、見たいと思って行くが、人々から邪魔をされる。すると、今度はいちじく桑の木に登って、イエスを見ようとする。ザアカイの熱意と一途さがここにある。しかし、それ以上に彼のゆがんだ屈折した思いが感じられる。ルカ18:35~43に登場する目の見えない人は、通り過ぎるイエスに大声ではっきりと「わたしをあわれんで下さい」と助け求める。しかし、ザアカイは木の上から隠れて見るという行動しかとれない。ここに「失われたものの」姿を見る。
イエスはザアカイのように隠れて見ようとする人にも、同じように関わってくださる。イエスはザアカイの名前を呼ばれた。「今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)とイエスの方から、ザアカイに強く迫られた。これは、「わたしはあなたの家に泊まらなければならない」という意味であり、彼の家に泊まることが神による救いの計画を表わしている。煮え切らない態度のザアカイでさえ、イエスは尋ねだされたのである。
そして、尋ね出された人には救いが来るのである(9節)。イエスを家に迎え入れたザアカイは大変喜び、悔い改めて、当時の法、慣習をも越える弁償を約束した。ここで意味深いのは、イエスはザアカイの仕事やその仕事ぶりについて何も言ってないことである。パリサイ人、律法学者であれば、取税人という仕事を捨てるよう要求しただろう。しかし、イエスは何も言われない。イエスは弁償のことさえ触れずに、ただザアカイの家族と共に食事をされただけである。そのイエスの深い愛に、ザアカイはまことの救いを見出したのである。ザアカイは真の悔い改めをもって、イエス・キリストにある救いを見出し、人生を生き直す方向転換をした。自分の名を呼び、自分をそのままで見つめて下さるイエスを知り、イエスと共に生きる決心をした。「悔い改めは人生の方向転換であって、人生からの脱走ではない」(レングストルフ)。
ここに、一人の人を見る神の愛のまなざしを見ることができる。ザアカイという一人の失われた者が、新しく正しい生き方に自分から進んで出ていったのは、イエスが彼を信頼されたからである。イエスは私たちにもまた、アブラハムの子である、神様から愛されている者であるというまなざしで見ておられる。私たちもそのように愛されている者として、愛する者へと変えられ、そのように人を見ていき信頼する者とさせてくださるよう祈りつつ励みたい。